コラム – 人形劇団プーク

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プーク人形劇場誕生50年シリーズ⑧

 先月11月26日がプーク人形劇場の誕生日でした。たくさんのお祝いのメッセージをありがとうございました。実は今年50歳になるのは劇場だけではありません。今週末より始まる毎年恒例クリスマス公演の『12の月のたき火』も、1971年4月、劇場誕生に先立ち生まれた作品です。劇場建設のために奔走していた真っ只中のことです。今回はこの、プーク人形劇場と共に歩んできた『12の月のたき火』の歴史についても少しだけご紹介いたします。

 引用資料は前回のコラムに引き続き「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)です。その第4部1971~1980(竹内とよ子、三橋雄一・著)「1,プー吉と糸操りの新たな回帰」より『12の月のたき火』に関する項目を抜粋して掲載いたします。

▲「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)

出遣い糸操り『12の月のたき火』

 プークの人形劇は、プー吉とチビの人形が幕前で歌う「アイウエオとなのお人形……」の「開業の歌」と挨拶で始まる。劇によっては省略される場合もあり、1970年代後半からは「開幕の歌」の他に、『うかれバイオリン』の中の「人形芝居の始まりだ……」の歌 (川尻泰司作詞、宮崎尚志作曲)が使われる場合もある。プー吉の人形には片手使い、両手使い、あるいは碁盤使いの大型人形といろいろな種類があるが、開幕の挨拶を通じてプークのプー吉は日本中の人たちに親しまれている。

 プー吉が誕生したのは1931年、戦前の移動上演活動の中だった。このプー吉の名をつけた「プー吉劇場」が始まったのは、第三部で述べられているように1968年のことだった。2トン車1台に、運転する人も含めて6人、人形、舞台、セット、照明器材、音響効果一切合切を乗せて、北海道から沖縄まで飛び回り、プークの人形劇を見てもらう。大劇場での公演だけでなく、どんな小さな町や村にでも出掛けて行くのが、戦前からのプークの流儀であり、戦後もそれは続けられていた。ずっと昔は、人形や舞台をリュックサックや大八車で運んだのを、1960年代末からの「プー吉劇場」では、車で移動するようになった。戦前は移動上演活動をする必要から、糸操りではなく手使い人形を取り上げ、それに応じたレパートリーが創られたが、「プー吉劇場」の場合もその活動形態にふさわしいレパートリーが要求されていた。何しろ、「プー吉劇場」を始めて以来、年間の上演日数は増大したものの会場は保育園、幼稚園、小学校、収容人員200人から800人ぐらいまでの中小ホールと、条件はまちまちである。しかも、軽装シンプルだからといって舞台効果の低い芝居をやることはできない。こういう状況に適応できる作品が、のどから手が出るほどほしかった。

▲ プー吉劇場トラック

 そこに登場したのが、「プー吉劇場」の新作『12の月のたき火』(川尻泰司作・演出、中山杜卉子・美術)だった。1971年4月のことだった。チェコスロバキアの民話をもとにしたこの作品は、ファンタジーにあふれシンプルで野趣に富んでいる。同時に、「プー吉劇場」の活動形態で上演できるように、出遣い形式による糸操りが採用された。これは日本の現代人形劇では初めてのことであった。

 普通、糸操りといえば、操作者は姿をみせないが、この糸操りでは、黒子を着た遣い手の姿は観客から見える。主な人形の構造は、首のてっぺんに固定された鉄線で体全体を保ちながら首を動かし、腰と手足は糸で操作する。これは川尻がチェコの伝統的な糸操りの構造をもとにしてコントローラー(吊り手)を改良したもので、それによって合理的な操作が出来るようになった。また、火の精の人形は、さらに単純でよく自転するように構造が工夫された。

▲ 舞台「12の月のたき火」よりマルーシャと火の精(撮影/中谷吉隆)

 『12の月のたき火』は、糸操り独特の味わいが他の仮面や切出し人形とみごとに溶け合い、可動パネルの舞台装置とあいまって、これまでとは一味違った、斬新で情感溢れる舞台になった。 そして、この舞台は、今日まで 「プー吉劇場」ならびにプーク人形劇場で上演をつづけ、毎年、年末にはプーク人形劇場になくてはならない演し物になっている。振り返れば、プークは創立当初は糸操りを使っていた。それが、実際の活動の必要から、手使い人形を用いるようになった。戦後は、1956年初演の『金の鍵』では、部分的に糸操りも取り上げられた。その後、川尻は「綜合人形操作術」を提唱した。「綜合」という中には、手使いのみならず棒使いも糸操りも含まれるはずである。だが、『金の鍵』以後はプークの舞台に糸操りは登場しなかった。一方、出遺いは、1960年代半ば頃から、人形劇表現の拡大のために積極的に取り組まれていた。糸操りと出遣いとを融合させた出遣い糸操りとなれば、糸の長さも短くてすみ、舞台も比較的簡便な機構ですますことができる。「綜合人形操作術」は出遣い糸操りによる『12の月のたき火』によって一歩前進させられた。そして、出遣い糸操りは、プーク人形劇場こけら落しに上演された『はだかの王様』へ、また、時を経ずして「プー吉劇場」のような小班だけでなく大班の舞台でも試みられることになった。

▲ 「12の月のたき火」初演ポスター(1971年)

 1971年12月15日、プーク人形劇場こけら落しの幕が上った。その幕開きは、言うまでもなくプー吉とチビの登場である。この時のプー吉は、前年、「プー吉劇場」のために川尻が創った碁盤使いの人形だった。劇場開場の記念公演は、昼は子どものために、川尻東次の代表作『はだかの王様』、宮沢賢治の原作を川尻泰司が脚色した『霧と風からきいた話』、夜は大人のために、プークの古典的な作品『ファウスト博士』の第一部を上演した。『ファウスト博士』では、演技陣は完全ダブル・キャストで、それまで両手使いだった主要な役はすべて棒使いに改められた。『霧と風からきいた話』は、片手使いと両手使いの人形に人間俳優が絡んでの新作である。『はだかの王様』は1930年の初演以来ほとんど片手使いで演じられてきたのが、ここでは、出遣い糸操りに一新された。

 劇場建設を進めながら、これらの多様な舞台の同時仕込みに、直接関係したスタッフや演技者はもちろんのこと制作や事務関係までが大わらわで、てぜまな劇場はゴッタ返した。こうして、プークの人形たちは木の香がかおる真新しい自分たちの舞台で、入れ替り立ち替り登場して自分たちの歌を歌いはじめた。翌春からは『小さなトムトム』と『ひとまねアヒル』、秋からは『12の月のたき火』と『小坊主ずいてん』が子どもたちのために上演され、劇場は開場の初年度から、子どもの公演のシーズン制出し物の季節替り制を定着させて行った。

 『12の月のたき火』の公演は今週11日(土)より始まります。まだお席の空いているステージもございますので、ぜひマルーシャに会いにいらしてくださいね。

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑦

 本日2021年11月26日、プーク人形劇場は50歳になりました。劇場建設は、戦前より多くの試練、困難を乗り越え、ようやく手にした夢でした。当時の劇団員たちをはじめ、この偉大な事業にかかわったすべての偉大な先人たちに想いを馳せます。”こどもたちの夢と楽しさにあふれた小さな殿堂”であり続けられるよう、私たちは絶やすことなく彼らの想いを受け継ぎ、この劇場から、創造、発信を続けていきます。

▲ プーク人形劇場外観

 さて、前回に引き続き「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)をご紹介いたします。第3部1960~1971(長谷川正明・著)「7,プーク人形劇場の建設」には劇場建設にまつわる歴史的背景や社会的事情などが詳しく書き記されています。劇場建設に向けた、当時の並々ならぬ情熱と執念をお届けできたらと思います。

第二次プーク建設計画――2PP

 劇場建設計画は、1948年の第一次プーク建設プラン――1PPをふまえ、第二次プーク建設プラン――2 PPと名づけた。

 この2PP計画をすすめるために、劇団は映像部門を相対的に独立させ、公演活動をする部門と映像方面を専門とする部門の二つにわけた。それに将来、劇場部門が加わり、三つの部門が確立し、人形劇団プークの活動を積極的に拡大していく方針をとった。 この体制は現在までつづいており、すっかり定着し、それぞれが大きく成長して、今日のプークを形成している。

 初めての人形劇専門劇場の建設となれば、やはり大事業だ。事業のもつ思想性、それをすすめる方針は大きなかなめとなる。そのため河竹繁俊早大名誉教授に建設計画顧問になっていただいた。教授は「大阪の朝日座、東京の国立劇場小劇場と文楽を保存するにはいい劇場がある。しかし現代および将来の人形劇のための専門劇場は なかった。日本がかつての文楽を生んだことを思うと、今日の創造の場がないのは残念だし、おかしなことだ。それがいよいよ、この道ひとすじに生きてきた人形劇団プークの手によって作られようとしている。この壮挙に私は心からの声援をおくりたい。現代の人形劇界で最も長い歴史をもち、しかも伝統の継承発展ということにも深い関心と努力を傾けているプークは、この意義ある事業をなすのに最もふさわしいことは明らかだ。」と就任の弁を語っている。初期の段階ではあったけれど御指導いただいて、まもなく亡くなられてしまった。(1967年12月15日) まことに残念なことであった。先生が亡くなられたあと、御子息の河竹登志夫早大教授がひきつがれて御指導いただいた。

▲ 河竹繁俊氏(左)と川尻泰司
▲ 河竹繁俊氏(左)と川尻泰司

劇場の設計、劇場は風俗営業?

 劇場の基本設計は、主として川尻がヨーロッパ9ヶ国の人形劇場の実地調査をもとにプランをたてた。小さな劇場であってもその舞台はどんな人形劇も上演することができる綜合的な舞台機構をもつ人形劇専門劇場をつくることを目標とした。

 ところがいま劇場が建っている渋谷区代々木2丁目は第二種文教地区であり、劇場はキャバレー、バー、待合などと同じ風俗営業とみなされ、原則として建築できないことになっており、都知事の特別認可が必要だった。多少の困難はあっても私たちの目的は必ず通ずると確信し、常設の専門人形劇場の設計をすすめることを決断した。これがあとでなかなか進捗しない原因となるのだが、常設専門劇場にしたことで、劇場の格からも日常業務の上でも、ずいぶんとあとになってプラスになった。

 建築設計は、劇団創立メンバーの潮田税(当時、日東建設取締役)の友人で、綜合建築研究所長 片岡正路技師に依頼した。潮田には、設計顧問として相談にのってもらった。片岡は現在の日比谷公会堂の設計メンバーのひとりであり、昔気質の、質素で実用的な建物を建てるといった思想の持ち主だった。私たちの意見を面倒がらず聞きいれ、敷地3坪の土地に、地上5階、地下3階、現代人形劇の舞台機構と106席の客席をそなえた劇場、 「まるで潜水艦のなかのような」といわれたこまかい面倒な設計図をつくりあげた。そしてこの後、4年にわたる都の建築行政部門との折衡、図面の変更と辛抱づよく私たちと行をともにし、あるときは「しんぼう、しんぼう」と励まし、また慰めて、希望をもちつつ指導された。設計料は実費程度しか受けとらず、劇場完成をわがことのように喜ばれた。劇場完成してまもなく、引退され、3年ほどして病気で亡くなられた。 1967年7月26日、プーク人形劇場建設のプログラムを発表した。全国からたくさんの激励の手紙、電話がよせられ、また建設資金の一部にと、カンパが送られてきた。

 建築許可の申請を都に提出したが、第二種文教地区への劇場建設は、知事の特別認可が必要であり、その申請の書類作成には、都の建設局建築指導部の指導が必要であるという。その指導で何回か図面を書き直し、申請しようとするとその指導部長が他へ転勤する。つぎの新しい指導部長は、別の意見をもっていて、図面を書き直させる。1968年もすぎ、工事着工予定の69年になっても、許可はおりず、見とおしも立たなかった。そこで 旭川の松井恒幸の友人で、五十嵐旭川市長に都知事への紹介を依頼する一方で、プークの近所に住まわれ、朝夕挨拶をかわしていた市川房枝元参議院議員に事情をお話し、美濃部都知事への斡旋をお願いした。 1970年9月、都知事の特別認可で、建築許可証をようやく手にすることができた。 計画をたててから満6年、この間インフレによる諸物価の値上がりはたいへんだ。とくに建築資材は70年に大阪で開かれた万国博覧会の会場建設で高騰していた。また消防法が毎年のように改正され、消防設備、保安設 備の追加で、建築予算は5000万円から契約時では、7000万円にふくれていた。

 このため、1970年から1971年にかけ、劇団員の積立ては、10%から35%にひきあげられた。また各界の人たちから、貸してあげようとの申し出があり、作家の方がたからは執筆料をカンパしていただき、またこの期間に、多くの賞を受賞した。いろいろな方法で有形無形の協力が各方面からよせられた。さいわいこの5年の間に劇団の収入は大幅に増加し、予算のオーバーも充分うめることができそうであった。

 1970年12月30日、大晦日にあと一日の暮もおしつまった日の夕方、建築会社と正式契約をむすび契約金を支払った。 1971年2月10日、地鎮祭、翌日から工事がはじまり、7月25日上棟式と工事は順調に進んだ。

▲ 1972年12月17日 美濃部都知事と市川房枝氏( プーク人形劇場誕生1周年記念公演「12の月のたき火」を子どもたちと一緒に観劇 )

プーク人形劇場の完成

 1971年11月26日、プーク人形劇場は完成した。 この日は劇団創立者川尻東次の命日にあたる。劇場前面の壁に川尻泰司のデザインで劇団40年の歴史とそのなかで亡くなった先輩たちの名が刻まれた。それは川尻と彫刻家野口鎮の二人が主になって彫刻し、劇団のものそれぞれがひと鑿づつ彫ったものである。そのため建物全体が大きな記念碑となっていて、いかにも現代人形劇の劇場らしい特色と風格をもつ建物となった。 舞台の緞帳は川尻のデザインで、素朴な藁人形の絵が川尻と中山杜卉子によって直接絵の具で描かれた。 開場当日は各界の人びとを招いて落成披露をおこなった。28日には劇団の先輩、友人、家族のものたちと祝いの会をもった。

 劇場の柿落しは12月10日で、演目はこどものために川尻東次脚色のアンデルセンの『はだかの王様』と宮沢賢治原作、川尻泰司脚色の『霧と風からきいた話』の二作品を昼の部で、おとなのために『ファウスト博士』 第一部序幕を夜の部で公演した。

 また劇場完成を記念し、人形劇団クラルテが『千鳥の歌』、ひとみ座が『怪猫宇都谷峠』と『艶容女舞衣・酒屋の段』、竹田人形座は『雪ん子』、『鬼一法眼三略巻 五条橋の段』をそれぞれ上演し祝ってくれた。劇場完成のニュースは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで画期的なことと報道された。北海道から沖縄まで全国各地から祝いの電報、電話がよせられ、海外の人形劇人からも手紙がおくられてきた。 劇場完成にあたって川尻泰司は劇団を代表し、次のように述べている。(劇場完成記念パンフレットNo,45)

(前略)劇場の完成には初期の3ヵ年計画が2年延期され、5ヵ年間の期間を要し2年延びてちょうど42周年目にでき上るということにはなった。しかし約束を果したという安心感とともに、われわれにとって は、やはり大きな喜びである。だがそれは、われわれが更に新しいスタートラインに立ったことを意味す る。それは、仏つくって魂入れず。ということになっては何もならないことだからである。 われわれの新しい段階の意味するものは、プーク自身とその仕事が、真に現代人形劇芸術の創造と建設に更に一歩深まったものとして成長することであり、それとともに、劇場を中心とした事業の経営ということにも、資本主義的社会条件の中で一人前の仕事ができるだけに成長しつつ、なお本来の芸術的文化的活動の本質的成長を計っていかなければならないことだろう。 われわれが今後の活動でそのような成果を上げ得ていくなら、このプーク人形劇場――全長にして奈良の大仏のほぼ2倍にあたる高さのこのビルディングは、プーク42年の歩みを記念するだけでなく、わが国の現代人形劇発展の歴史を語る巨大な碑として存在しつづけるだろう。(中略)残されたことは、この碑に本当のプークの魂を生かし続けることだ。

 プーク人形劇場の誕生は、プークの歴史を、劇場の誕生以前と以後とにわけるほどの影響を与えた。1970年代、80年代のプークの活動は、この劇場を中心にして行なわれ国際活動の場ともなった。こどもたちにとってはいつでも人形劇が見られる楽しい劇場となり、劇団の創造の実験室であり、劇団の多様な活動の堅固な根拠地となっている。

 なお2000万円にのぼる建設資金の借入金は、1977年にはすべて返済を終了した。ひきつづく劇団収入の増収が大きく寄与したが、1973年のOPECの石油価格大幅値上げによるいわゆる石油ショックで、物価は3割、5割の値上がりとなるインフレが、逆に借入金の負担を軽くした。建設があと2年おくれていたら建設資材の暴騰で、劇場建設は私たちの手のとどかない彼方にいっていたにちがいない。

▲ 1971年11月26日 プーク人形劇場誕生記念パーティー
▲ 劇場案内リーフレット外面
▲ 劇場案内リーフレット外中面

※劇場の建物内部は現在の仕様と異なることがございます。詳しくお知りになりたい方はお問い合わせください。

▲世界中から集められた人形が並ぶ ロビー売店
▲美味しいコーヒーに手作りケーキが自慢のカフェ