コラム – ページ 3 – 人形劇団プーク

Newsお知らせ

【 コラム 】カテゴリー記事一覧

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑨

 寒さ厳しき折、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年もゆったりペースでプークにまつわるあれこれをご紹介してまいりますので、おうち時間のおともにお付き合いいただけたらと思います。

 さて今日から2回連続でプーク人形劇場の外観についてお話してまいります。まずは劇場という建物についてのお話です。昨年10月15日発行の「みんなとプーク」第277号『プーク見聞録』の記事より、ご覧ください。(※注釈のない写真はすべてイメージ画像です)

▲プーク人形劇場の壁面を掘る劇団員(1971年)

プーク見聞録 ~劇場50周年~

その3「碑と壁面彫刻」

 1971年、プーク人形劇場が誕生した年に発行された記念誌の中で、当時の劇団で代表を務めていた川尻泰二は建物の完成を「やはり大きな喜びである」としながら「だがそれは、われわれが更に新しいスタートラインに立ったことを意味する」と語り、その訳を「”仏つくって魂入れず”ということになっては何にもならないことだからである」と記しました。

また、文中には全長27メートルの劇場を「奈良の大仏のほぼ2倍」の高さだと感慨深く語る氏の言葉も残されており、そこからは劇場と仏象を重ねて見ていた眼差しが感じられます。今回は、そんな氏の残した言葉の由について、劇団に遺された文献や多少の民俗学分野の研究を手掛かりに探ってみたいと思います。

 まず、一般に劇場とは建築物です。したがって御仏の姿を模した仏像のような鋳物(いもの)や石造物とは造られる目的から異なります。但し、ここで注意すべきは劇場のように何らかのことが演じられる場とは、本来は神に祈りを捧げる場であったということです。先ほどの川尻氏の文章にもあった奈良の大仏は、正確には(ひがし)大寺(だいじ)盧舎那(るしゃな)(ふつ)(ぞう)と言い、奈良県は東大寺の大仏殿に本尊として納められていますが、こうした仏殿が建立(こんりゅう)されるような土地は、それより以前の古い時代から神木や石神(いしがみ)などの神体が祀られていた所を選ぶことが多く、そのような巨木や奇岩(きがん)を境内に祀っている寺社は現在も多く見られます。

また縄文など古来より、それらの神体には土地の人々による五穀豊穣や安産祈願などの「実り」に対する祈りを捧げられてきました。その切実なる祈りは、後に様々な形へと発展していったと考えられますが、その一つに祭りがあります。元来、祭りは神が降りて来るのを待つ儀式であったと言われていますが、その最中において人々は神を待つために様々な祭儀を行い、祭りの起源や謂れを伝承するために芝居を演じて物語るようになったのではないかと考えられます。また、そうした祭事を行った場が今の劇場の原風景であるように私には思えてなりません。

以上のように日本の原始宗教は祭文や祭事などの中に民族の伝統を遺してきたのですが、やがて大陸から文字が伝播されると、石などの自然物にそれを刻む慣習が生まれます。文字を彫られた石は、石碑もしくは「(いしぶみ)」と呼ばれ、表面にはその地に伝わる”忘れてはならない過去の謂れ”が刻まれています。そうした石を日常的には記念碑などと呼びますが、けして軽んじて然るべきものではありません。なぜならば、そこには何か「魂」とでも言えるものが刻まれているからです。

 さて、ここで話を劇場の方へと戻しますと、プーク人形劇場が誕生した当時「コンクリート直彫り」と謳った劇場の外壁には、多くの碑文が刻み込まれています。それらは劇団が創立されてからの歴史や「多くの困難の中にプークの未来を信じつつ世を去った人たちの名前または愛称」をエスペラント文字で刻んだ数多の徴です。そして、それらの碑文を彫り込んだ劇場を、川尻泰司は「42年の足跡を絵入年代記として彫り込んだいしぶみである」と述べています。つまり、氏はこの劇場を石仏より前の原始的な神体になぞらえて考えていたのではないでしょうか。

▲劇場壁面のレリーフ

飛鳥時代に大陸から仏教が伝来されるより以前、原始の時代における神体は仏像ではなく自然にある石や木でした。森羅万象の事物に神が宿ると考えた日本のアニミズムにおいて、生活に恵みをもたらす木や石の中でも特に巨大なものや奇態なものは人々に畏敬の念を抱かせました。

こうした呪術的ともいえる強大な力を「太陽の塔」の造形などで知られる岡本太郎氏は「なんだこれは!」という戦慄の言葉で端的に表現していますが、本来、石とはそうした底知れぬ力を内に秘めたものなのです。プーク人形劇場はコンクリート造であるため、その材質は純粋な石ではありませんが、やはり川尻泰司がそれを「碑」であると書いている以上、本質的にはやはり石の建築物と考えるべきでしょう。だからこそ、劇場は仏でもあり得ると共に「魂」の入れものとしても成り立つのです。

▲ 劇場壁面のレリーフ(正面入口左側)たとえ ひとりになっても私は歩みをやめない。新しい仲間は必ず集まってくる。プークがやろうとするのはそのような人形劇の仕事だ!

では、その肝心な「魂」とは何かといえば、それは人形劇を含む芸術の全てではないかと私は考えます。劇団の記念碑でもある劇場に表現者の心に灯る火を絶やさぬことで、劇場に宿る「魂」は今も燃え上がり続けているのです。在りし日に建築現場の職人さんたちから「石屋さん」と呼ばれ、壁面の削石に打ち込んだ日のことを川尻泰司は「幸せに満たされた日々」と回想しています。その胸に煌いたであろう喜びへと想いを寄せながら、この度は筆を置くことにします。(文・池田日明)

▲劇場壁面に彫刻を施す笑顔の川尻泰司(1971年)

いかがでしたか。次回は壁面に掘られた印や名前について、一つ一つ取り上げてみたいと思います。どうぞお楽しみに。

プーク人形劇場誕生50年シリーズ⑧

 先月11月26日がプーク人形劇場の誕生日でした。たくさんのお祝いのメッセージをありがとうございました。実は今年50歳になるのは劇場だけではありません。今週末より始まる毎年恒例クリスマス公演の『12の月のたき火』も、1971年4月、劇場誕生に先立ち生まれた作品です。劇場建設のために奔走していた真っ只中のことです。今回はこの、プーク人形劇場と共に歩んできた『12の月のたき火』の歴史についても少しだけご紹介いたします。

 引用資料は前回のコラムに引き続き「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)です。その第4部1971~1980(竹内とよ子、三橋雄一・著)「1,プー吉と糸操りの新たな回帰」より『12の月のたき火』に関する項目を抜粋して掲載いたします。

▲「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)

出遣い糸操り『12の月のたき火』

 プークの人形劇は、プー吉とチビの人形が幕前で歌う「アイウエオとなのお人形……」の「開業の歌」と挨拶で始まる。劇によっては省略される場合もあり、1970年代後半からは「開幕の歌」の他に、『うかれバイオリン』の中の「人形芝居の始まりだ……」の歌 (川尻泰司作詞、宮崎尚志作曲)が使われる場合もある。プー吉の人形には片手使い、両手使い、あるいは碁盤使いの大型人形といろいろな種類があるが、開幕の挨拶を通じてプークのプー吉は日本中の人たちに親しまれている。

 プー吉が誕生したのは1931年、戦前の移動上演活動の中だった。このプー吉の名をつけた「プー吉劇場」が始まったのは、第三部で述べられているように1968年のことだった。2トン車1台に、運転する人も含めて6人、人形、舞台、セット、照明器材、音響効果一切合切を乗せて、北海道から沖縄まで飛び回り、プークの人形劇を見てもらう。大劇場での公演だけでなく、どんな小さな町や村にでも出掛けて行くのが、戦前からのプークの流儀であり、戦後もそれは続けられていた。ずっと昔は、人形や舞台をリュックサックや大八車で運んだのを、1960年代末からの「プー吉劇場」では、車で移動するようになった。戦前は移動上演活動をする必要から、糸操りではなく手使い人形を取り上げ、それに応じたレパートリーが創られたが、「プー吉劇場」の場合もその活動形態にふさわしいレパートリーが要求されていた。何しろ、「プー吉劇場」を始めて以来、年間の上演日数は増大したものの会場は保育園、幼稚園、小学校、収容人員200人から800人ぐらいまでの中小ホールと、条件はまちまちである。しかも、軽装シンプルだからといって舞台効果の低い芝居をやることはできない。こういう状況に適応できる作品が、のどから手が出るほどほしかった。

▲ プー吉劇場トラック

 そこに登場したのが、「プー吉劇場」の新作『12の月のたき火』(川尻泰司作・演出、中山杜卉子・美術)だった。1971年4月のことだった。チェコスロバキアの民話をもとにしたこの作品は、ファンタジーにあふれシンプルで野趣に富んでいる。同時に、「プー吉劇場」の活動形態で上演できるように、出遣い形式による糸操りが採用された。これは日本の現代人形劇では初めてのことであった。

 普通、糸操りといえば、操作者は姿をみせないが、この糸操りでは、黒子を着た遣い手の姿は観客から見える。主な人形の構造は、首のてっぺんに固定された鉄線で体全体を保ちながら首を動かし、腰と手足は糸で操作する。これは川尻がチェコの伝統的な糸操りの構造をもとにしてコントローラー(吊り手)を改良したもので、それによって合理的な操作が出来るようになった。また、火の精の人形は、さらに単純でよく自転するように構造が工夫された。

▲ 舞台「12の月のたき火」よりマルーシャと火の精(撮影/中谷吉隆)

 『12の月のたき火』は、糸操り独特の味わいが他の仮面や切出し人形とみごとに溶け合い、可動パネルの舞台装置とあいまって、これまでとは一味違った、斬新で情感溢れる舞台になった。 そして、この舞台は、今日まで 「プー吉劇場」ならびにプーク人形劇場で上演をつづけ、毎年、年末にはプーク人形劇場になくてはならない演し物になっている。振り返れば、プークは創立当初は糸操りを使っていた。それが、実際の活動の必要から、手使い人形を用いるようになった。戦後は、1956年初演の『金の鍵』では、部分的に糸操りも取り上げられた。その後、川尻は「綜合人形操作術」を提唱した。「綜合」という中には、手使いのみならず棒使いも糸操りも含まれるはずである。だが、『金の鍵』以後はプークの舞台に糸操りは登場しなかった。一方、出遺いは、1960年代半ば頃から、人形劇表現の拡大のために積極的に取り組まれていた。糸操りと出遣いとを融合させた出遣い糸操りとなれば、糸の長さも短くてすみ、舞台も比較的簡便な機構ですますことができる。「綜合人形操作術」は出遣い糸操りによる『12の月のたき火』によって一歩前進させられた。そして、出遣い糸操りは、プーク人形劇場こけら落しに上演された『はだかの王様』へ、また、時を経ずして「プー吉劇場」のような小班だけでなく大班の舞台でも試みられることになった。

▲ 「12の月のたき火」初演ポスター(1971年)

 1971年12月15日、プーク人形劇場こけら落しの幕が上った。その幕開きは、言うまでもなくプー吉とチビの登場である。この時のプー吉は、前年、「プー吉劇場」のために川尻が創った碁盤使いの人形だった。劇場開場の記念公演は、昼は子どものために、川尻東次の代表作『はだかの王様』、宮沢賢治の原作を川尻泰司が脚色した『霧と風からきいた話』、夜は大人のために、プークの古典的な作品『ファウスト博士』の第一部を上演した。『ファウスト博士』では、演技陣は完全ダブル・キャストで、それまで両手使いだった主要な役はすべて棒使いに改められた。『霧と風からきいた話』は、片手使いと両手使いの人形に人間俳優が絡んでの新作である。『はだかの王様』は1930年の初演以来ほとんど片手使いで演じられてきたのが、ここでは、出遣い糸操りに一新された。

 劇場建設を進めながら、これらの多様な舞台の同時仕込みに、直接関係したスタッフや演技者はもちろんのこと制作や事務関係までが大わらわで、てぜまな劇場はゴッタ返した。こうして、プークの人形たちは木の香がかおる真新しい自分たちの舞台で、入れ替り立ち替り登場して自分たちの歌を歌いはじめた。翌春からは『小さなトムトム』と『ひとまねアヒル』、秋からは『12の月のたき火』と『小坊主ずいてん』が子どもたちのために上演され、劇場は開場の初年度から、子どもの公演のシーズン制出し物の季節替り制を定着させて行った。

 『12の月のたき火』の公演は今週11日(土)より始まります。まだお席の空いているステージもございますので、ぜひマルーシャに会いにいらしてくださいね。

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑦

 本日2021年11月26日、プーク人形劇場は50歳になりました。劇場建設は、戦前より多くの試練、困難を乗り越え、ようやく手にした夢でした。当時の劇団員たちをはじめ、この偉大な事業にかかわったすべての偉大な先人たちに想いを馳せます。”こどもたちの夢と楽しさにあふれた小さな殿堂”であり続けられるよう、私たちは絶やすことなく彼らの想いを受け継ぎ、この劇場から、創造、発信を続けていきます。

▲ プーク人形劇場外観

 さて、前回に引き続き「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)をご紹介いたします。第3部1960~1971(長谷川正明・著)「7,プーク人形劇場の建設」には劇場建設にまつわる歴史的背景や社会的事情などが詳しく書き記されています。劇場建設に向けた、当時の並々ならぬ情熱と執念をお届けできたらと思います。

第二次プーク建設計画――2PP

 劇場建設計画は、1948年の第一次プーク建設プラン――1PPをふまえ、第二次プーク建設プラン――2 PPと名づけた。

 この2PP計画をすすめるために、劇団は映像部門を相対的に独立させ、公演活動をする部門と映像方面を専門とする部門の二つにわけた。それに将来、劇場部門が加わり、三つの部門が確立し、人形劇団プークの活動を積極的に拡大していく方針をとった。 この体制は現在までつづいており、すっかり定着し、それぞれが大きく成長して、今日のプークを形成している。

 初めての人形劇専門劇場の建設となれば、やはり大事業だ。事業のもつ思想性、それをすすめる方針は大きなかなめとなる。そのため河竹繁俊早大名誉教授に建設計画顧問になっていただいた。教授は「大阪の朝日座、東京の国立劇場小劇場と文楽を保存するにはいい劇場がある。しかし現代および将来の人形劇のための専門劇場は なかった。日本がかつての文楽を生んだことを思うと、今日の創造の場がないのは残念だし、おかしなことだ。それがいよいよ、この道ひとすじに生きてきた人形劇団プークの手によって作られようとしている。この壮挙に私は心からの声援をおくりたい。現代の人形劇界で最も長い歴史をもち、しかも伝統の継承発展ということにも深い関心と努力を傾けているプークは、この意義ある事業をなすのに最もふさわしいことは明らかだ。」と就任の弁を語っている。初期の段階ではあったけれど御指導いただいて、まもなく亡くなられてしまった。(1967年12月15日) まことに残念なことであった。先生が亡くなられたあと、御子息の河竹登志夫早大教授がひきつがれて御指導いただいた。

▲ 河竹繁俊氏(左)と川尻泰司
▲ 河竹繁俊氏(左)と川尻泰司

劇場の設計、劇場は風俗営業?

 劇場の基本設計は、主として川尻がヨーロッパ9ヶ国の人形劇場の実地調査をもとにプランをたてた。小さな劇場であってもその舞台はどんな人形劇も上演することができる綜合的な舞台機構をもつ人形劇専門劇場をつくることを目標とした。

 ところがいま劇場が建っている渋谷区代々木2丁目は第二種文教地区であり、劇場はキャバレー、バー、待合などと同じ風俗営業とみなされ、原則として建築できないことになっており、都知事の特別認可が必要だった。多少の困難はあっても私たちの目的は必ず通ずると確信し、常設の専門人形劇場の設計をすすめることを決断した。これがあとでなかなか進捗しない原因となるのだが、常設専門劇場にしたことで、劇場の格からも日常業務の上でも、ずいぶんとあとになってプラスになった。

 建築設計は、劇団創立メンバーの潮田税(当時、日東建設取締役)の友人で、綜合建築研究所長 片岡正路技師に依頼した。潮田には、設計顧問として相談にのってもらった。片岡は現在の日比谷公会堂の設計メンバーのひとりであり、昔気質の、質素で実用的な建物を建てるといった思想の持ち主だった。私たちの意見を面倒がらず聞きいれ、敷地3坪の土地に、地上5階、地下3階、現代人形劇の舞台機構と106席の客席をそなえた劇場、 「まるで潜水艦のなかのような」といわれたこまかい面倒な設計図をつくりあげた。そしてこの後、4年にわたる都の建築行政部門との折衡、図面の変更と辛抱づよく私たちと行をともにし、あるときは「しんぼう、しんぼう」と励まし、また慰めて、希望をもちつつ指導された。設計料は実費程度しか受けとらず、劇場完成をわがことのように喜ばれた。劇場完成してまもなく、引退され、3年ほどして病気で亡くなられた。 1967年7月26日、プーク人形劇場建設のプログラムを発表した。全国からたくさんの激励の手紙、電話がよせられ、また建設資金の一部にと、カンパが送られてきた。

 建築許可の申請を都に提出したが、第二種文教地区への劇場建設は、知事の特別認可が必要であり、その申請の書類作成には、都の建設局建築指導部の指導が必要であるという。その指導で何回か図面を書き直し、申請しようとするとその指導部長が他へ転勤する。つぎの新しい指導部長は、別の意見をもっていて、図面を書き直させる。1968年もすぎ、工事着工予定の69年になっても、許可はおりず、見とおしも立たなかった。そこで 旭川の松井恒幸の友人で、五十嵐旭川市長に都知事への紹介を依頼する一方で、プークの近所に住まわれ、朝夕挨拶をかわしていた市川房枝元参議院議員に事情をお話し、美濃部都知事への斡旋をお願いした。 1970年9月、都知事の特別認可で、建築許可証をようやく手にすることができた。 計画をたててから満6年、この間インフレによる諸物価の値上がりはたいへんだ。とくに建築資材は70年に大阪で開かれた万国博覧会の会場建設で高騰していた。また消防法が毎年のように改正され、消防設備、保安設 備の追加で、建築予算は5000万円から契約時では、7000万円にふくれていた。

 このため、1970年から1971年にかけ、劇団員の積立ては、10%から35%にひきあげられた。また各界の人たちから、貸してあげようとの申し出があり、作家の方がたからは執筆料をカンパしていただき、またこの期間に、多くの賞を受賞した。いろいろな方法で有形無形の協力が各方面からよせられた。さいわいこの5年の間に劇団の収入は大幅に増加し、予算のオーバーも充分うめることができそうであった。

 1970年12月30日、大晦日にあと一日の暮もおしつまった日の夕方、建築会社と正式契約をむすび契約金を支払った。 1971年2月10日、地鎮祭、翌日から工事がはじまり、7月25日上棟式と工事は順調に進んだ。

▲ 1972年12月17日 美濃部都知事と市川房枝氏( プーク人形劇場誕生1周年記念公演「12の月のたき火」を子どもたちと一緒に観劇 )

プーク人形劇場の完成

 1971年11月26日、プーク人形劇場は完成した。 この日は劇団創立者川尻東次の命日にあたる。劇場前面の壁に川尻泰司のデザインで劇団40年の歴史とそのなかで亡くなった先輩たちの名が刻まれた。それは川尻と彫刻家野口鎮の二人が主になって彫刻し、劇団のものそれぞれがひと鑿づつ彫ったものである。そのため建物全体が大きな記念碑となっていて、いかにも現代人形劇の劇場らしい特色と風格をもつ建物となった。 舞台の緞帳は川尻のデザインで、素朴な藁人形の絵が川尻と中山杜卉子によって直接絵の具で描かれた。 開場当日は各界の人びとを招いて落成披露をおこなった。28日には劇団の先輩、友人、家族のものたちと祝いの会をもった。

 劇場の柿落しは12月10日で、演目はこどものために川尻東次脚色のアンデルセンの『はだかの王様』と宮沢賢治原作、川尻泰司脚色の『霧と風からきいた話』の二作品を昼の部で、おとなのために『ファウスト博士』 第一部序幕を夜の部で公演した。

 また劇場完成を記念し、人形劇団クラルテが『千鳥の歌』、ひとみ座が『怪猫宇都谷峠』と『艶容女舞衣・酒屋の段』、竹田人形座は『雪ん子』、『鬼一法眼三略巻 五条橋の段』をそれぞれ上演し祝ってくれた。劇場完成のニュースは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで画期的なことと報道された。北海道から沖縄まで全国各地から祝いの電報、電話がよせられ、海外の人形劇人からも手紙がおくられてきた。 劇場完成にあたって川尻泰司は劇団を代表し、次のように述べている。(劇場完成記念パンフレットNo,45)

(前略)劇場の完成には初期の3ヵ年計画が2年延期され、5ヵ年間の期間を要し2年延びてちょうど42周年目にでき上るということにはなった。しかし約束を果したという安心感とともに、われわれにとって は、やはり大きな喜びである。だがそれは、われわれが更に新しいスタートラインに立ったことを意味す る。それは、仏つくって魂入れず。ということになっては何もならないことだからである。 われわれの新しい段階の意味するものは、プーク自身とその仕事が、真に現代人形劇芸術の創造と建設に更に一歩深まったものとして成長することであり、それとともに、劇場を中心とした事業の経営ということにも、資本主義的社会条件の中で一人前の仕事ができるだけに成長しつつ、なお本来の芸術的文化的活動の本質的成長を計っていかなければならないことだろう。 われわれが今後の活動でそのような成果を上げ得ていくなら、このプーク人形劇場――全長にして奈良の大仏のほぼ2倍にあたる高さのこのビルディングは、プーク42年の歩みを記念するだけでなく、わが国の現代人形劇発展の歴史を語る巨大な碑として存在しつづけるだろう。(中略)残されたことは、この碑に本当のプークの魂を生かし続けることだ。

 プーク人形劇場の誕生は、プークの歴史を、劇場の誕生以前と以後とにわけるほどの影響を与えた。1970年代、80年代のプークの活動は、この劇場を中心にして行なわれ国際活動の場ともなった。こどもたちにとってはいつでも人形劇が見られる楽しい劇場となり、劇団の創造の実験室であり、劇団の多様な活動の堅固な根拠地となっている。

 なお2000万円にのぼる建設資金の借入金は、1977年にはすべて返済を終了した。ひきつづく劇団収入の増収が大きく寄与したが、1973年のOPECの石油価格大幅値上げによるいわゆる石油ショックで、物価は3割、5割の値上がりとなるインフレが、逆に借入金の負担を軽くした。建設があと2年おくれていたら建設資材の暴騰で、劇場建設は私たちの手のとどかない彼方にいっていたにちがいない。

▲ 1971年11月26日 プーク人形劇場誕生記念パーティー
▲ 劇場案内リーフレット外面
▲ 劇場案内リーフレット外中面

※劇場の建物内部は現在の仕様と異なることがございます。詳しくお知りになりたい方はお問い合わせください。

▲世界中から集められた人形が並ぶ ロビー売店
▲美味しいコーヒーに手作りケーキが自慢のカフェ

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑥

プークの歴史を調べるときに、定本としている資料があります。それは「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)です。時代ごとに第5部から成るそれは、当事者であるメンバーが中心となって執筆を担当し、当時の劇団の内情を事細かに伝える記録として大変貴重な資料です。今回はその第3部1960~1971(長谷川正明・著)の「7,プーク人形劇場の建設」より2回に渡って全文抜粋いたします。

▲「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)

人形劇場への夢

 「人形劇の専門劇場を建てる」という夢は、人形劇人がもつ共通の夢だ。プークの創立からこれまで、どれほどのひとがどれだけの数、夢見たことだろう。この夢を現実のものにしようとしたのが、1964年12月の劇団総会であった。総会はさまざまな討議のあと、「1969年の劇団創立40周年に、プークの人形劇専門劇場を五ヵ年計画で建設しよう!」と全員拍手でしめくくった。

 人形劇場建設の初めての計画は、1949年・第一次プーク建設計画―1PPの最終計画に組みこまれていた。それは当時、民主主義の文化をになう意気ごみの若いプークの夢であり、ロマンチシズムだった。しかし活動がはじまったばかりで、劇団経営の経験は浅く、時代を見通す力も弱かった。誤算と過信がかさなって、ついには夢のままで終った。

 ロマンを夢のままで終らせずに、現実のものとするためには、劇場についての認識と劇場建設を遂行できる経済力、それに劇場を運営維持できる劇団の能力が不可欠である。劇団アンサンブルが劇場を持つことで、創造活動にどういうメリットがあるのか、経営が成り立つのか、デメリットは、公演活動はどうなるのか、教育活動は、運動にどう影響するか、理解できるところと、はかりしれないところとを一緒にして、総合してひとつひとつを確かめていくほかなかった。なにしろ初めてのことなのだから。さいわい劇団の力量は、アンサンブルの安定、経営力の増大、観客支持層のひろがり、そして劇団指導部の多くの経験と指導力、すべての点で、50年代とは比較にならぬほどの成長をしめしていた。

 当時、いま劇場がたっている場所に、建坪20坪の木造2階屋が立ち、そのなかに劇団事務所、稽古場、アトリエが同居していた。1959年に地主の藤島家と和解し、建てられたものだが、安普請ため、2階の重みで1階の柱に大きなひび割れができるなど、建物として危険な状態にあった。それに事務所も稽古場も美術アトリエも、それぞれが手ぜまになり、新しい稽古場の建築が待たれていた。

1948年6月
1959年7月改築(1970年撮影)

 新しい建物の規模は、すくなくとも3階建てか4階建てを考え、建築費は、当時の金で3500万円から4000万円と見積もった。

 1964年、2度目のヨーロッパ視察から帰国した川尻は、各国の人形劇場を実際に調べ歩いて、かなり具体的なイメージをもって、劇場建設の計画を提案した。初めの案は、劇場と稽古場をかねたものだったが、話し合っていくうち、劇場とはなにか、劇場をもったアンサンブルとは、どんな形態をもつのか、劇場の機構は、人形劇場と他の劇場とでは、どう違いがあるのか、その運営はどうするのか、劇団内の討論はだんだんと熱をおび、計画は次第に大きくなり、具体的なものとなっていった。資金も5000万円を少しうわまわるかもしれない。機材や設備はあとで少しずつ加えていこう。この規模なら少し借金すればできるだろうと思った。

 劇場建設の予定地は、現在の稽古場敷地40坪弱の地ときめた。せまいという声もあったが、新宿副都心として将来発展する現在地は、劇場にふさわしい地であり、それは土地の狭さを考慮に入れても、かえがたい利点だとする川尻の案がいれられた。1984年の今日、新宿副都心の一角に、劇場が存在することが、いかに大きいかがわかる。

劇場建設の資金計画

 自分たちの劇場をつくるのだから、当然自分たちで資金をつくることが基本である。資金計画は、建設資金の70%を自分たちでつくり、あとの30%を銀行ならびにプークの友人、支持者から借り入れる計画をたてた。またこの計画を運動として盛りあげひろめるために、建設記念バッジや人形をつくり、販売するカンパニアを起すことにした。64年当時の劇団メンバーは27人、年間総収入1600万円ほどである。

▲建設記念バッジを買う親子(1967年)
▲バッジのデザインは毎年変えられた(1年ごとに一人二人三人と仲間が増えていく)
劇場誕生の案内状
(”バッジを胸につけてこられたお子様は、本公演に御招待いたします”と書かれている)

 自己資金をつくるため、劇団員は総会で決議した翌1月から、自分の給料の9%を建設資金に積み立てることを決め、給料天引きの積立てがおこなわれた。毎月の給料のほか、劇団に収益がでれば、それはかならず給料として分配されるから、これが一番確実な方法だった。このような方法がとれたのは、「こどものための人形劇」公演の成功で、劇団経営が安定し、劇団員の給料が毎月きちんと出せるようになったからである。また映像部門は第2制作部として相対的に独自な経営で成長していき、この二つの部門の活動の拡大で、劇団の収入は毎年30%から40%増の伸び率を示した。劇団員の給料は、国民の標準収入にくらべ、まだ半分にみたないけれど、収入増にともない給料の引き上げが、毎年のようにおこなわれていた。その頃の日本経済は、所得倍増、拡大再生産のかけ声で、消費景気をあおり、インフレを承知で景気拡大をはかっていた、いわゆる第二次高度成長の時代であった。

 積立ては、劇団員のみに限られ、研究生や職員はしなくともよかった。この積立金は、のちに劇場の資本金に充当され、劇団員全員が株主になった。

 資金づくりのもう一つは、銀行から低利の金を、借入することである。

 始め、取引銀行の貸付課長に相談にいくと「プークさん、おやめなさい。投資をしてそれから利益があがるなら結構ですが、小さな劇場では採算はとれず、いまのプークにたいへんな負担になります」と逆に意見されてしまった。資金の給料天引き案も「いまでも低いプークの皆さんの給料に、それは無謀というものです。とても続きません」と信じてもらえなかった。

 しかし1965年1月からはじめた積立金が、定期預金に2年、3年と預けられていくと、銀行は信じられない面もちで、こんどは感心しだし、すっかり信用してもらえるようになった。さっそく環境衛生金庫からの融資に動いてもらい、それに銀行からの融資も加わり、借入の目途も立つようになった。

 この資金計画、調達の中心になって働いたのは、劇団財政部長をしていた梅原一男である。梅原は川尻の小学校の同窓で、47年、劇団再建当時、川尻の誘いでプークに入団し、劇団財政の仕事をそれ以来ずっとひきうけてきた。財政の窮乏化が日常的になった50年代、毎日毎日が火の車で、電気もガスもとめられ、しかし劇団は新しい作品を仕込んで公演する。それをうけて借金につぐ借金をかさね、ホーチミンの如きしぶとい人だと陰口も尊敬をこめていわれながら、劇団の財政を守ってきた。1953年秋、『バヤヤ王子』公演の準備中に結核で喀血し、急遽入院し2年の療養のあと、再び劇団活動に復帰した。建設資金の調達は、彼の長い劇団経歴と信用が、大きな力となった。1969年、彼は後輩に仕事を託し退団し、彼自身が望んでいた田園生活にはいっていった。

 融資銀行の目途もついた1966年、劇場建設工事中の稽古場を確保するため、田無市芝久保に土地百坪を購入し、翌年、この土地に中古のプレハブで稽古場と倉庫、それに木造の住宅を建てた。(次回へつづく)

▲カンパ芳名簿

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑤

ご好評をいただいております、こちらのコーナー、今回は少し角度を変えて、プーク人形劇場の立地についてのお話です。7月1日発行の「みんなとプーク」第276号より『プーク見聞録』の記事からご紹介いたします。

▲1958年 プークアトリエ周辺航空写真(一番右の白丸が現在地)
淀橋浄水場(1899~1965)が写真上部に広がる。左右を横断するのが甲州街道と京王線。

 “それは今から50年前のことでした。春告鳥がようやく目を覚まし、うたの稽古を始めた冬晴れの日に、プーク人形劇場の建設は始められました。それに先立ち行われた地鎮祭(じちんさい)では、祝詞の上奏や、鎌や鍬などを使っての地鎮が行われたほか、獅子舞による地固めも行われ、氏神様へ建設の許しを乞う祈りが捧げられたとともに、これから建設が始められる劇場の堅固長久が祈られました。今回は、プーク人形劇場が建っている土地についてみていきましょう。

▲1971年2月10日 地鎮祭にて舞う獅子舞
▲1971年2月10日 鍬入れ式に人形たちも参加

 まず皆さんは現在のプーク人形劇場がある住所をご存知でしょうか。新宿駅からほど近く、南新宿の地域にある劇場ですが、その住所は意外にも渋谷区の代々木2丁目となっています。では、劇場の氏社は代々木八幡宮なのかと言えばそうではありません。劇場の所在地を含む代々木2丁目の一部地域は、昭和32年頃に地名が変更される以前は千駄ヶ谷5丁目に含まれ、その内の裏新町と呼ばれた地域に劇場は建っています。そのため氏社は千駄ヶ谷の総鎮守である鳩森八幡(はとのもりはちまん)神社で、そこで祀られる八幡神様に劇場は守られているのです。その千駄ヶ谷の地は、かつては千駄の萱を産生する豊かな萱野であったとか、千駄焚きという高台で火を焚き行う雨乞いのための場であったなどと言われています。また、江戸時代には武蔵野台地に流すための上水路として玉川上水が掘られ、その分水(ぶんすい)が昭和の中頃まで地上を流れていました。それも現在では暗渠(あんきょ)になってしまいましたが、その跡地には御上水に掛かっていた橋の名を継ぐ形で葵通りと名付けられています。

▲現在のマインズタワービル

 ちなみに、この葵通りにも引き継がれた葵という名は、現在のマインズタワーが建っている土地に紀州徳川家の下屋敷があったことに由来しています。昔の人々は橋にも命が宿っていると考え、それを橋姫の伝承などに残していますが、劇場近くにあったこの橋は徳川家の家紋にあやかり葵橋と呼ばれ、人々から親しまれて現在でも記念碑などが残されています。

▲葵橋の記

その徳川家の下屋敷の南には大きな池があり、そこには水車が掛かっていました。今から約2万年前に成立したとされる武蔵野台地を流れる渋谷川やその支流は、江戸から明治にかけて人々の生活を豊かに支えてきました。葛飾北斎の浮世絵に描かれている「隠田(おんでん)の水車」の景からは水車を利用して精米や洗濯などを行う人々の暮らしを垣間見ることができるでしょう。

▲冨嶽三十六景 穏田の水車(東京富士美術館所蔵品)
解説ページ:https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1169

 また、江戸時代の人々の暮らしの中で欠かすことのできないものに民間信仰があります。信仰のために結ばれた集団を〝講〞といいますが、これには稲荷講(いなりこう)や庚申講(こうしんこう)と種々様々な信仰があります。特に渋谷の地域では富士山を信仰する富士講の人気が高く、直接に富士へ出向くことのできない人々のために富士塚が築かれたこともあり、それは今も鳩森八幡神社の境内に鎮座しています。そうした信仰のための建築物は他にも様々ありますが、舞台もその一つと考えられるでしょう。その代表格に神社の境内に設営される能舞台がありますが、そもそも日本における芸能の起源は八百万(やおよろず)の神々に対する祈りにあるのだと私は考えます。前号で取り上げた「田遊び」も田の神様への豊穣祈願を目的とした催事の一つでした。その他にもこうした例は枚挙にいとまがないほど存在します。

 1971年2月10日に行われた地鎮祭において、プークはこの土地に宿る八幡神様に祈りを捧げ、劇場建設の許しを頂きました。それから50年が経過した現在も劇場は同地に建ち、私たちに人形劇を演じる喜びを与え続けてくれています。いつの世も人は土地とともに暮らし、何かに祈りを捧げて生きて来ました。私はプーク人形劇場があなたや私の暮らしを豊かにする祈りの場でありつづけていけることを願って止みません。(文/池田日明)” 

▲1948年6月竣工 現在地に建てた稽古場
▲解体前のアトリエ兼稽古場の様子

いかがでしたでしょうか。今回は少し違った視点からのお届けとなりました。今週末は紀伊國屋ホールでの観劇の帰り道、古地図を片手に新宿・渋谷地域をブラブラ散策してみるのも楽しいかもしれません。きっと今までとは異なる風景が見えてくるはずです。くれぐれも熱中症にはお気を付けくださいね。