2022年9月 – 人形劇団プーク

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2022年9月 記事一覧

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑭

 本日より始まりました「新宿ストリートシアター」。5つのバリアフリー(国籍・障害・年齢・経済・地域)をコンセプトに、普段なかなか劇場に足を運べない方や、今まで舞台芸術に出会ったことのない方にも、優れた芸術体験をお届けしたい。そんな想いから、今年はプーク人形劇場・新宿高島屋・オンラインの3拠点で開催しています。

 「いつもの場所」が「劇場」に! 会場で、オンラインで、皆さまのお越しをお待ちしております。

 そしてこちらのコラムでは、およそ50年前の劇場誕生時から構想され、これまで長きにわたって続けられてきた「世界の人形劇シリーズ」の歴史についてご紹介します。プークは劇団創立時より、世界各国との文化交流や国際活動を積極的に行ってきました。その一環として始められたこの劇場企画ですが、プークの定本「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)には、そのいきさつが詳しく記録されています。

▲パーシー・プレス親子「パンチとジュディ」(1973年)

第4部1971~1980(竹内とよ子、三橋雄一・著)

5,国際交流から国際活動へ

「世界の人形劇シリーズ」スタート

 プーク人形劇場企画・世界の人形劇シリーズが始まったのは、1973年11月である。以後、このシリーズは毎年プーク人形劇場の名物となっている。その第1回の出演は、イギリスのパーシー・プレス父子の『パンチとジュディ』ならびに吉田千代勝・千代海の秋田猿倉人形芝居という日英両国の伝統人形劇の競演だった、この取合せは実は1972年に手合せずみだった。日本ウニマ代表団がシャルルビル・メジェールに向かう途中、当時のウニマ会長ジャン・ブッセル宅をロンドン郊外に訪ねた。そこでパーシー・プレス一座と吉田千代勝一座とがサロンで上演したのである。

 また、1973年4月には川尻が芸場支配人長谷川正明を同行して、ウニマ執行委員会(ストックホルム)とソフィアの国立中央人形劇場25周年記念行事に出席した。その後、川尻はモスクワの国立中央人形劇場に、以前から約束してあったプー吉の人形を寄贈して帰国したが、長谷川は川尻と分かれて40日間にわたって、ヨーロッパ各地に人形劇の視察旅行を続けた。そのような事前の調査や視察の上に、『パンチとジュディ』を皮切りに第2回、アルブレヒト・ローゼル(西ドイツ)第3回、ブルガリア国立ソフィア中央人形劇場、第4回、リチャード・ブラッドショウ(オーストラリア)とジャン・ポール・ユベール(フランス)、以下今日に至るまで、このシリーズが続けられている。

 回を重ねるにつれて、プーク人形劇場でこのような海外人形劇紹介して行なわれていることは、プーク 国内だけでなく海外においても国際的劇団として知らしめることになって行った。 巻末のプーク公演・ 活動年表を見ても分るように、プーク以外のところでも、海外人形劇人の来日とその公演が繁くなったのは1974年以降であり、プーク人形劇場で上演はしなくても海外人形劇人のプーク訪問も同時期から増えている。 このことはプーク人形劇と世界の人形劇シリーズの継続が全く無関係とは言えないだろう。


 一方で、ウニマ執行委員として川尻は、第2回中央アジア人形劇フェスティバルに招待参加 (1975年)し、 また、星野はオーストラリアのタスマニア人形劇場で、自作のプーク上演作品『とんまなてんぐ』 (英訳名 BIG NOSE) 演出・美術を担当、二カ月間にわたって同劇場の若いアンサンブルを指導した。

第1回海外公演 ヨーロッパツアー(1976年)


 そして、1976年6月、第12回大会と国際人形劇フェスティバルがモスクワで開催された。これには、プークからはまたも8名(ノーヴァからも嘱託の酒井久美子と同野公夫を含む)が参加した。このモスクワ行きは、日本代表は69名の多数にのぼった。 大会では川尻泰司は、執行委員に再選されたほか、新設された第三世界委員会の委員にも選ばれた。また、この大会と祭典参加で、長谷川、曽根、竹内の3名は、3コース に分れたそれぞれのツアーの事務局を、川尻原次はフェスティバルに上演参加の八王子車人形西川古柳座と西畑人形、池原由起夫夫妻らの舞台監督を、秋田恭子は日本ウニマ書記として日本代表団の事務局を務めた。このモスクワ参加の年の秋、プーク初の海外公演が行なわれた。