コラム – ページ 2 – 人形劇団プーク

Newsお知らせ

【 コラム 】カテゴリー記事一覧

2022年新作落語お盆寄席に寄せて

お待たせしました!2022年新作落語お盆寄席、いよいよ来月開催です!続々とご予約頂いております。

世話役の清麿師匠から開催にあたっての想いを語っていただきました。


「来るものは拒まず、去る者は追わず」| 夢月亭清麿

毎年、お正月とお盆に、新作落語寄席をこの〝プーク人形劇場〟で公演させていただいている夢月亭清麿でございます。もう、二十年以上も続いております。きっかけは、それまでの根城であった〝渋谷ジァンジァン〟の閉鎖でした。「ウチでよかったら、やりませんか」というありがたい言葉をかけて下さったのが、プークさんです。

 我々のリーダーで、残念ながら去年の秋に亡くなった三遊亭円丈師は、ある信念を持っていました。「新作落語は、独演会や二人会では限界がある。寄席形式で出演者がチケットを売らないシステムがいい。〝来る者は拒まず、去る者は追わず〟だよ。落語家も客も絶えず動いていなきゃあダメだよ。」

 この言葉は大変重いものです。昔の寄席と異なり、今の寄席は限られた人気者や実力者が出番を多く持ちます。落語家の人数が多すぎて、寄席の数が少なすぎるのです。よっぽどの人気者でない限り、落語会を開くには、チケットを売りさばくという大仕事をしなければなりません。知名度のない若手では、まず無理でしょう。

 円丈師はこうも言っておりました。「客と落語家の関係は難しいよ。今は友だちになっちゃう客が、かなりいるけど、ごひいきと友達は違うんだよ。友達の前で、落語、特に新作は演じても正確な評価は得られないよ。何人もの出演者が出る寄席形式が、やはり、理想に近いんじゃあないかな」

 円丈師亡き後、これらの言葉を肝に銘じて、〝来る者は拒まず、去る者は追わず〟で公演したいと思います。ぜひお越しを。

『みんなとプーク』280号 「smile+」より転載


夢月亭清麿(むげつていきよまろ) プロフィール
本名は池谷実。1950年生まれ、東京都出身。新作落語を中心に演じ、得意ネタは東京の地名シリーズ。映画好き、プロレス好きでも知られ、『プロレスラーのとっておきの話』などの著作も発表している。出囃子は「串本節」。

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑫

 皆さん、こんにちは。プーク人形劇場では『もりのへなそうる』と『影絵人形劇 大きなかぶ』の公演が始まり、ゴールデンウィークにはたくさんの皆さんにご来場いただきました。まだ観ていないという方、明日からの公演は比較的お席に余裕がありますので是非お出かけくださいませ。

 さて『もりのへなそうる』では、てつたくんとみつやくんが繰り広げる遊びの中から物語が展開していきます。この「こども」と「遊び」とは一体どんな関係にあるのでしょうか。先月発行の 「みんなとプーク」第279春号 『プーク見聞録』のコーナーから、一緒に考えを巡らせてみたいと思います。

▲ 2022年4月15日発行「みんなとプーク」第279春号

プーク見聞録 その5 ~こどもと遊び~

 この春からプーク人形劇場では『もりのへなそうる』が上演されます。お芝居では五歳になったお兄さんのてつたくんが、二歳年下の弟みつやくんを連れて、こども部屋から想像で見立てた不思議な森へと探検に出ます。鬱蒼とした密林を切り開き、果敢に進んで行く二人は、やがて森の奥に”きれいなでっかい卵”を見つけ……。そうして始まるこのお話しは、私たちをこどもの遊びの世界へと誘います。今回は、そんなお芝居にもある「こども」と「遊び」について様々な本からみていきましょう。

▲ 人形劇団プーク「もりのへなそうる」舞台

 皆さんは「七歳までは神のうち」という口碑をご存じでしょうか。柳田国男さんが採取したと言われるこの言葉の解釈については諸説あり、よく知られているものには七五三や七つ子参りに関係し、幼子の命の不安定さを述べているという説があります。その一方ではもっと単純に、こどもは大人とは異なる存在であることを表しているとする説もあり、こちらは子やらいという古い言葉にも繋がる解釈でしょう。しかし、ここではこの言葉を文字通りに七歳(満年齢の五、六歳)までのこどもは神と同じだとするものと考えます。その理由は「遊び」にあります。

 人類を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と呼称したのは歴史家のヨハン・ホイジンガです。彼はその著書において「文化は遊びのなかで始まった」と、文化の本質が遊びにあることを説いています。では、遊びとは何でしょう。我が国におけるその起源について、詩人の高橋睦郎さんが『遊ぶ日本』の中で興味深い論考を記しています。高橋さんは『神楽歌』の一つ「木綿(ゆふ)作る」において「遊べ」と繰り返し唱和されることに着目し、―元方が「君も神ぞ」というのに対して、末方が「汝も神ぞ」といっているから、唱和する両者は神と想定されるだろう。とすると、「遊べ」とはほんらい神の動詞なのではないかーと推察します。

高橋睦郎 著『遊ぶ日本』

 神と遊びの関連で言えば、東北などの巫女の職能にオシラアソバセがあります。これはオシラサマと呼ばれる木偶(でく)を手で操り、祭文を唱えながらそこに宿った神を遊ばせる祭事のことで、ここでも「遊ばせ」が神の動詞として用いられています。その他にも神楽を神遊びという場合もあることから本来の遊びとは神を楽しませ、神と人とが交歓するための行為であったことが想像されます。

▲オシラサマの人形:青森県下北半島陸奥市のイタコが使う二体、1968年撮影(川尻泰司著『人形劇人ノート』より)

 そうした「遊び」は、現代では社会学者のロジェ・カイヨワの手によって分類化され、『遊びと人間』において彼は、ごっこ遊びや芝居をミミクリ(模擬)の遊びから生じたものと記しています。また民俗学においては、こどもの遊びは大人の慣習や神事の模倣に始まり、そこから本来の意味が抜け落ちて生じるものだとする考え方もあります。日本語における模擬や模倣の起源は、マネブ、マナブと言う古語にあるので、日本では模倣と学習が同源であったことが推量されます。すると、こどもの遊びとは大人の模倣を通した社会経験だと考えられそうですが、果たしてそれだけでしょうか。

ロジェ・カイヨワ著『遊びと人間』

 仏文学者の多田道太郎さんは『遊びと日本人』の中で次のように述べています。―子供は大人そのものをマネているのではない。大人のすることを模倣し、模倣しているうちに自由な好奇心の発動を味わい、これを遊んでいるのである。(中略)子供は実用性をはなれ、感動そのものとなる。子供が最初の詩人となる。子供は大人を模倣しながら、しかし彼はいわば純粋模倣者となる。大人をマネるだけではない、彼は状況を模倣し、生物を模倣し、宇宙そのものを模倣する―ここで言う「感動」とは、即ち私たちの太古の記憶のことです。

多田道太郎著『遊びと日本人』

 民俗学者のフロベニウスはアフリカでの調査を通して、古代人の生活における経験は、まだ表現を得ず「ただ感動に打たれた状態」であったと考えました。こどもとは人の未来であると同時に過去でもあるという考え方がありますが、私たちはこどもの遊ぶ姿に、生きることがただ感動そのものであった頃の記憶を、或いは神の面影を感じているのかも知れません。だからこそ、私たちはその姿に感動をすら覚えるのでしょう。

 「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶこどもの声聞けば、我が身さげこど動(ゆる)がるれ」とは、平安時代の今様集『梁塵秘抄』の一首にもその感動は歌われています。この春は、こどもと遊びの季節を過ごされてはいかがでしょう。劇場では小さなお友達から大きなお友達まで、すべての皆さまをお待ちしております。お客さまも神さまです。(文・池田日明)

植木朝子著『梁塵秘抄』

 こどもたちは未来でもあり、過去でもあったのですね。太古の昔から遠い未来までがこどもたちによってつながっている、何だかとてもスケールの大きな話ですが、客席のこどもたちの素直な反応が、私たち大人に元気や癒しを与えてくれるのは、このようなルーツも影響していたのかもしれません。

 こどもの遊びから生まれた「へなそうる」にどうぞ会いにいらしてください。公演は6月5日(日)まで行っています。劇場でお待ちしております。

▲ 人形劇団プーク『もりのへなそうる』舞台

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑪

プーク人形劇場に併設された「コーヒープンクト」。店主こだわりのコーヒーと手づくりケーキが堪能でき、観劇の合間の憩いの場として、プークの人形劇とセットで愛して下さっている方も多いと思います。 今回は劇場にとって、なくてはならない喫茶室と売店についてのお話です。どうぞお付き合いください( 2022年1月1日発行の「みんなとプーク」第278号『プーク見聞録』の記事より転載)。

▲ プーク人形劇場2階・喫茶ぷーぽ(1971年)

 冬の朝、東の果てから透明な日差しが町へ届けられました。昨夜は人声に賑わった歩道も今はひっそり閑として、響いて来るのは(のこぎり)みたいな木枯らしと雀の(さえず)りただそれだけです。ちゅんちゅんちゅんと可愛らしい雀の声は、古人の耳にはチウチウチウと鼠の様に聞こえたのだとか。「うつくしきもの。瓜にかきたる(ちご)の顔。すずめの子の、ねず鳴きするに踊り来る」とは『枕草子』の一節ですが、この小さな鳥を愛らしく想う心地は、古今を問わず誰しもが感じて来たことなのでしょう。さて、そんなうつくしき客人も雀合戦さながら集まり来る場が、新宿にあることを皆さんはご存知でしょうか。プーク人形劇場の一階にちょこんと構える喫茶〝プンクト〞。陽のあたる通りに面し、小鳥に祝福されたこの愛らしいサロンと劇場とのお話を今日は致しましょう。

コーヒープンクト(現在)

 「上等な豆で淹れた珈琲を誰にも気軽に飲んでもらいたい」そんな気風(きっぷ)の良さからか、旨い珈琲や素材にこだわった洋菓子やジュースなどを取り揃えるプンクトは、終日(ひねもす)行き交い人や劇場へ訪れるお客様に向かって開かれた喫茶です。また、テイクアウトに供されるペーパーカップには、プークのレパートリーとしても大切にされているメーテルリンクの『青い鳥』を模した絵がスタンプされています。「一杯の珈琲から夢の花咲くこともある」と、古い流行歌の文句にありますが、このうた鳥が告げるのはすぐ隣にある幸せでしょうか。踊り来る雀と戯れ、冬の珈琲が冷めぬ間に、そんな想像に思いを巡らせてみるのも気楽な楽しみかも知れません。

▲コーヒープンクトの紙コップ

 そんなプンクトより前の時代には、〝ぷーぽ〞という喫茶室がありました。こちらは劇場が誕生した1971年に建物の2階に併設されたもので、店内は世界各国の人形劇のポスターや(ほうき)に乗った魔法使いの人形で飾られ、人形劇人たちのサロンとして賑わったと聞きます。また当時を知る劇団員によれば、年末の大掃除を終えるといつも劇団の全員に珈琲を振舞ってくれたと言うことで、一杯の温もりに羽を休めた人もきっと多かったのではないでしょうか。

▲ プーク人形劇場2階・ 喫茶ぷーぽ(1971年)

 しかし、こうした劇場へ喫茶室を併設するという計画は、どのようにして発想されたものなのでしょうか。そこで劇団内にて話を伺えば、どうやら劇場の建設に際してヨーロッパ諸国を視察して回った川尻泰司が、現地の劇場で目の当たりにした経験を元にして発想したということです。「舞台や客席だけでなく、子どもたちが一丁前に迎えられる場所や経験を与えたい」という想いを持った氏が、大人の施設である喫茶や売店をも劇場に併設しようと計画し、数年の後に実現させました。

▲ 喫茶ぷーぽ・ギャラリー
▲ だるまちゃんショップ開業時、かこさとしさんと(2000年・喫茶ぷーぽの後)
▲ プーク人形劇場1階ロビー売店(現在)

 終戦後に再建されたプークは「こどももおとなも楽しめる5歳から88歳までの人形劇」というスローガンを掲げ、日本中を公演するところから始まったと劇団の歴史に伝わっていますが、その標語は劇場建設の際にも作用し、現在でも世代を超えた多くのお客様を迎えられる日々が続いています。劇場の座席に腰を下ろしてどれどれと人形劇を観劇し、喫茶においては歓談のひとときを喫することの楽しみは、これから大人になろうとする子どもにとっても貴重な時間でしょう。

現代の言葉の一つに” 消費者”という語がありますが、人生は消費するものではなくて想像(創造)するものであるといつでも信じていたいものです。プーク人形劇場は、そうした人の想像力を育む場として今日も尚あり続けています。新しいモノを生み出すことも、壊れたモノを直すことも、人や自分の気持ちを省みることも、全ては想像力の為せる業です。この劇場へ訪れたあなたの探し物がいつかこの場所で見つかりますように。一幕の舞台から、あなたの青い鳥を探してみませんか。(文/池田日明)

▲ 人形劇団プーク「青い鳥」よりチルチル・ミチル人形写真(1957年初演時)
▲ 人形劇団プーク「青い鳥」ポスター(1957年初演時)

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑩

 先月はプーク人形劇場の建物についてお話いたしました。最近ご来場の際に劇場の外観を見上げてくださる方をよく見掛けます。興味を持ってくださってとてもうれしく思います。

劇場の壁には、目を凝らすと様々な装飾が施されているのですが、何の印だろうと不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。

今回は1991年プーク人形劇場誕生20周年の記念の年に発行された「みんなとプーク」第143号『こどものページ』のコーナーから、じっくり解説いたします。

▲「みんなとプーク」第143号表紙(1991年11月20日発行)

こどものページ』より

~人形劇おじさんの話 No.31~

劇場の壁には何が彫ってあるの?

 プーク人形劇場の正面の壁には1階から5階まで、いろいろな彫刻が掘られています。

 これはプークが誕生してから劇場ができるまでを絵と文字で彫りつけた人形劇団プークの歴史です。

 この彫刻は20年前、この劇場を建てたとき、おじさんが構図を考えてデザインをし、彫刻家の野口鎮さん(元プーク美術部員・行動美術会員)に協力してもらって掘ったものです。

▲壁面を掘る劇団員たち①(1971年)
▲壁面を掘る劇団員たち② (1971年)
▲壁面を掘る劇団員たち③ (1971年)

 劇団の人たちも、ある人はブタの目、別の人はオリーブの葉を一枚ずつと手伝って掘り上げました。

 全部彫り上げるのには1ヵ月ちかくかかりました。

▲▼劇場壁面(一番上の段)

 一番上に掘ってある1929はプークができた年号で、今から62年前です。そのときの劇場の名前は「人形クラブ」で、エスペラント(万国共通語)では、LA PUPA KLUBO、PUKはそれを略したもので、戦争後、それを劇団の名前にして人形劇団プークになったのです。

 その下にTOJO、またその下にPiriとあるのは劇団創立者川尻東次の名前で、子どものときピリケン(キューピー)そっくりでピリはニックネームです。

 けれどそのころの日本には芸術の仕事に自由がなく、1933年にはプークの名前で活動することができなくなり「パンチ座」と名前をかえました。ここから年号の文字が凹字になるのはそのためです。

 パンチ座のとき、おじさんは日本ではじめて両手使いの人形を作ったので、その首を掘りました。

▲▼劇場壁面(4階)

 次は4階です。1935年には「お人形座」に変り、初めて影絵が上演されました。1936年にはまた人形劇団「ユーナプーポ」(若い人形)に変わりましたが、1938年には劇団員は人形を作って売る人形工房という共同生活をしながら活動を続けました。

▲▼劇場壁面(3階)

 3階にうつると、左半分の壁はデコボコに掘り荒らされていますが、これは太平洋戦争がはじまる前の年1940年に人形工房は全員警察に検挙され、劇団は解散させられ、戦争が終わるまでは、プークはなくなったようにして活動したのでした。

 ここに掘られている何人かの人たちの名前は、その間に亡くなった犠牲者たちです。鉄かぶとのガイコツとサーベルと鉄砲は、そのころの警察と軍隊を表わしています。手すりに掘られた人形を使う形の手に持った麦の穂は折られています。

 3階中央には、平和を表わすオリーブの枝に日本が戦争に負けた1945815日の記念日が掘られています。けれどその左にもう一人、戦争が終わっても警察から釈放されずに死んだ犠牲者の名前が掘られています。

▲壁に名前が掘られている人たち

 1946年は凸字で掘られています。焼け跡の目白にバラック小屋を建て、人形劇団プークが再建された年で、そのときの劇団のマークは丸太の棒から生まれたピノッキオでした。

 その右にあるのは劇団ができてから戦後まで、プークのみんなの面倒を見てくれた劇団の母親ともいうべき川尻東次の母親の名前です。

▲再建当時の稽古場、アトリエ。現在の劇場が建つ土地(1949年)

 1948年は現在劇場のあるこの場所にプークの事務所とけいこ場ができた年です。劇団員はここで共同生活をし、劇団のマークもPマークに変り、プークに花が咲きはじめました。マークの下に共同生活を支えた二人の名前があります。

▲▼劇場壁面(劇場名)

 劇場玄関の上の名前のPUK(プーク)PUPA(プーパ)TEATRO(劇場)の右に1949・1PPと凹字が掘られ、その下に凸字で1967・2PPとあります。

 1949年には、現在の劇場の道をへだてた反対側に、プークの百坪(330平方メートル)の土地にアトリエと住宅があり、さらにホールのあるプー吉会館を建てようと1PP(第1次プーク建設計画)をはじめましたが失敗に終わったので、これは凹字で掘られています。

 それからいろいろな困難がありましたが、劇団は力を養い、1967年には劇団創立40周年までにはなんとしてもプークの劇場を建てようと2PP(第2次プーク建設計画)を出発させて全力をあげてがんばりました。

 劇場名の左に掘られた1960とその下のマークは、この年日本ではじめてプークがUNIMA(国際人形劇連盟)に加入したので、ウニマのマークの人形がプークの旗を持っています。

 そして玄関入口の左の壁の上に掘られているように、計画より4年遅れた19711126日東次忌(川尻東次の命日)に2PPは成功し、プーク人形劇場が誕生しました。

 今年はそれからちょうど20周年の記念の年です。(絵と文/川尻泰司、1991年11月20日発行「みんなとプーク」第143号『こどものページ』より)

▲「みんなとプーク」第143号『こどものページ』 (1991年11月20日発行)

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑨

 寒さ厳しき折、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年もゆったりペースでプークにまつわるあれこれをご紹介してまいりますので、おうち時間のおともにお付き合いいただけたらと思います。

 さて今日から2回連続でプーク人形劇場の外観についてお話してまいります。まずは劇場という建物についてのお話です。昨年10月15日発行の「みんなとプーク」第277号『プーク見聞録』の記事より、ご覧ください。(※注釈のない写真はすべてイメージ画像です)

▲プーク人形劇場の壁面を掘る劇団員(1971年)

プーク見聞録 ~劇場50周年~

その3「碑と壁面彫刻」

 1971年、プーク人形劇場が誕生した年に発行された記念誌の中で、当時の劇団で代表を務めていた川尻泰二は建物の完成を「やはり大きな喜びである」としながら「だがそれは、われわれが更に新しいスタートラインに立ったことを意味する」と語り、その訳を「”仏つくって魂入れず”ということになっては何にもならないことだからである」と記しました。

また、文中には全長27メートルの劇場を「奈良の大仏のほぼ2倍」の高さだと感慨深く語る氏の言葉も残されており、そこからは劇場と仏象を重ねて見ていた眼差しが感じられます。今回は、そんな氏の残した言葉の由について、劇団に遺された文献や多少の民俗学分野の研究を手掛かりに探ってみたいと思います。

 まず、一般に劇場とは建築物です。したがって御仏の姿を模した仏像のような鋳物(いもの)や石造物とは造られる目的から異なります。但し、ここで注意すべきは劇場のように何らかのことが演じられる場とは、本来は神に祈りを捧げる場であったということです。先ほどの川尻氏の文章にもあった奈良の大仏は、正確には(ひがし)大寺(だいじ)盧舎那(るしゃな)(ふつ)(ぞう)と言い、奈良県は東大寺の大仏殿に本尊として納められていますが、こうした仏殿が建立(こんりゅう)されるような土地は、それより以前の古い時代から神木や石神(いしがみ)などの神体が祀られていた所を選ぶことが多く、そのような巨木や奇岩(きがん)を境内に祀っている寺社は現在も多く見られます。

また縄文など古来より、それらの神体には土地の人々による五穀豊穣や安産祈願などの「実り」に対する祈りを捧げられてきました。その切実なる祈りは、後に様々な形へと発展していったと考えられますが、その一つに祭りがあります。元来、祭りは神が降りて来るのを待つ儀式であったと言われていますが、その最中において人々は神を待つために様々な祭儀を行い、祭りの起源や謂れを伝承するために芝居を演じて物語るようになったのではないかと考えられます。また、そうした祭事を行った場が今の劇場の原風景であるように私には思えてなりません。

以上のように日本の原始宗教は祭文や祭事などの中に民族の伝統を遺してきたのですが、やがて大陸から文字が伝播されると、石などの自然物にそれを刻む慣習が生まれます。文字を彫られた石は、石碑もしくは「(いしぶみ)」と呼ばれ、表面にはその地に伝わる”忘れてはならない過去の謂れ”が刻まれています。そうした石を日常的には記念碑などと呼びますが、けして軽んじて然るべきものではありません。なぜならば、そこには何か「魂」とでも言えるものが刻まれているからです。

 さて、ここで話を劇場の方へと戻しますと、プーク人形劇場が誕生した当時「コンクリート直彫り」と謳った劇場の外壁には、多くの碑文が刻み込まれています。それらは劇団が創立されてからの歴史や「多くの困難の中にプークの未来を信じつつ世を去った人たちの名前または愛称」をエスペラント文字で刻んだ数多の徴です。そして、それらの碑文を彫り込んだ劇場を、川尻泰司は「42年の足跡を絵入年代記として彫り込んだいしぶみである」と述べています。つまり、氏はこの劇場を石仏より前の原始的な神体になぞらえて考えていたのではないでしょうか。

▲劇場壁面のレリーフ

飛鳥時代に大陸から仏教が伝来されるより以前、原始の時代における神体は仏像ではなく自然にある石や木でした。森羅万象の事物に神が宿ると考えた日本のアニミズムにおいて、生活に恵みをもたらす木や石の中でも特に巨大なものや奇態なものは人々に畏敬の念を抱かせました。

こうした呪術的ともいえる強大な力を「太陽の塔」の造形などで知られる岡本太郎氏は「なんだこれは!」という戦慄の言葉で端的に表現していますが、本来、石とはそうした底知れぬ力を内に秘めたものなのです。プーク人形劇場はコンクリート造であるため、その材質は純粋な石ではありませんが、やはり川尻泰司がそれを「碑」であると書いている以上、本質的にはやはり石の建築物と考えるべきでしょう。だからこそ、劇場は仏でもあり得ると共に「魂」の入れものとしても成り立つのです。

▲ 劇場壁面のレリーフ(正面入口左側)たとえ ひとりになっても私は歩みをやめない。新しい仲間は必ず集まってくる。プークがやろうとするのはそのような人形劇の仕事だ!

では、その肝心な「魂」とは何かといえば、それは人形劇を含む芸術の全てではないかと私は考えます。劇団の記念碑でもある劇場に表現者の心に灯る火を絶やさぬことで、劇場に宿る「魂」は今も燃え上がり続けているのです。在りし日に建築現場の職人さんたちから「石屋さん」と呼ばれ、壁面の削石に打ち込んだ日のことを川尻泰司は「幸せに満たされた日々」と回想しています。その胸に煌いたであろう喜びへと想いを寄せながら、この度は筆を置くことにします。(文・池田日明)

▲劇場壁面に彫刻を施す笑顔の川尻泰司(1971年)

いかがでしたか。次回は壁面に掘られた印や名前について、一つ一つ取り上げてみたいと思います。どうぞお楽しみに。