コラム – ページ 4 – 人形劇団プーク

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プーク人形劇場誕生50周年シリーズ④

プーク人形劇場誕生50周年記念公演、そして待望の新作「オカピぼうやのちいさなぼうけん/がんばれローラーくん」が明日、ついに初日を迎えます。おかげさまで7月の公演は全ステージ満席となりました。劇場が誕生して50年目となる今も、こうしてたくさんの皆さんに愛され、親しんでいただいていることに、改めて感謝の気持ちでいっぱいです。

さて今回は、50年前のプーク人形劇場杮落し公演の資料を集めてみました。ポスターや写真、パンフレット文章などから、当時の様子をお楽しみいただけたらと思います。

1971年12月 プーク人形劇場誕生フェスティバルポスター
1971年12月 プーク人形劇場誕生フェスティバルチラシ
1971年12月 プーク人形劇場杮落し公演当日
チケット窓口の様子(オープン当時)
劇場へと続く階段上(オープン当時)

<プーク人形劇場誕生フェスティバル>
~こどもの公演~
★はだかの王様★
★霧と風からきいた話★
1971年12月15日~26日
1972年1月3日~9日
開演10時/2時

1971年12月 プーク人形劇場誕生フェスティバル「はだかの王様/霧と風からきいた話」チラシ
1971年12月 プーク人形劇場誕生フェスティバル「はだかの王様/霧と風からきいた話」リーフレット
中をひらくと・・・

アンデルセンの童話より「はだかの王様」

■スタッフ
脚色   川尻東次
演出   川尻泰司
演出助手 石川明弥
美術   川尻泰司
美術助手 佐藤順子
音楽   長澤勝俊
照明   小川昇

■キャスト
かたりA   山根宏章
かたりB   石川秋弥
家来     槇村和江
大臣     大畑益彦
王様     笠原泰子
こども    直居あけみ
母親     笠原泰子
役人     山根宏章
ナレーション 木村陽子

■場割
1景  都の大通り
2景  お城の中
3景  はたを織る部屋
4景  王様の部屋
5景  都の大通り

■ものがたり
 王様は、新しい着物をこしらえることが大変お好きでした。軍隊や政治のことはみな家来たちがやってくれるので、王様は好き放題、新しい着物をこしらえていればそれでよかったのです。
 ある日、どこからか二人の男がやってきました。そして自分たちの織る織り物が色合いといい、柄といい、美しいばかりでなく、自分の役目に向かない者や、仕方のない馬鹿者には、見えないというのです。王様は大喜び、早速二人に頼みました。
 二人は王様に上等の金の糸や銀の糸を注文して行季の中へしまいこみ空っぽのはたおり台をパタンパタンと動かして、織るまねをしていました。
 さあできあがりました。新しい着物を着た王様の行列は町へ出発します・・・

■解説
 「はだかの王様」は、1930年12月プーク第3回公演で初演されました。当時の脚色、演出、美術は劇団創立者川尻東次で、この作品は当時の代表的作品といってもよいものになっています。
 初演当時は新しい人形劇がすべて糸あやつりで行われていた中で、「裸の王様」を手使い人形で使って、すぐれた舞台をつくりだしました。今回は、当時使われていた糸あやつり形式をあえてとりあげ、それを出使いの形で試みることによって現代人形劇の可能性をひろげていこうとしています。新しい人形劇場の記念的舞台になることでしょう。
 1932年に、築地小劇場で「裸の王様」を上演しようとしたとき、これを天皇に対する不敬、団体観念に反するものだとして上演が禁止されました。
 1935年には、「お人形座」という形で活動していましたが、アンデルセン童話100年祭を記念して、「王様の新しい着物」と題名だけを変えて検閲を通り再演しました。アンデルセンが「はだかの王様」でいおうとした封建的な権力の支配する社会そのものだったのです。そして、彼らが最も恐れるのは、「おうさまは、はだかだ」と叫ぶこどもの真実の声です。
 私たちは、平和が訪れるや、戦後の第一回試演会にとりあげました。このように、プークとそれをとりまく社会の動きの中で、「はだかの王様」の上演は、歴史的な軌跡を残しています。
 照明は、初演を飾った現日本照明家協会会長小川昇氏に、ふたたびお願いしました。(プーク人形劇場完成記念パンフレットより)

1971年12月 「はだかの王様」舞台写真
1971年12月 「はだかの王様」舞台写真
1971年12月 「はだかの王様」舞台写真
1971年12月 「はだかの王様」人形写真
1971年12月 「はだかの王様」人形写真
1971年12月 「はだかの王様」人形写真
1971年12月 「はだかの王様」人形写真

宮沢賢治 原作「ありときのこ」「鹿踊りのはじまり」より
『霧と風からきいた話』

■スタッフ
脚色     川尻泰司
文芸助手   星野毅
演出     宗方真人
演出助手   大畑益彦
美術     星野毅
美術助手   荒田良
音楽     長澤勝俊
照明     小川昇
効果     林昌平

■キャスト
嘉十     槇村和江
歩哨A    大畑益彦
歩哨B    石川秋弥
アルキル中佐 山根宏章
測量部兵士  直居あけみ
伝令     笠原泰子
きのこ    笠原泰子
鹿A     石川秋弥
鹿B     直居あけみ
鹿C     笠原泰子
鹿D     大畑益彦
手拭     山根宏章

■場割
第一景  ありときのこ
第二景  鹿踊りのはじまり

■ものがたり
 ありの兵隊の駐屯地に、きのこがにょっきりあらわれました。ありたちは一晩のうちにできた丸く大きく光ったものにびっくり。秘密工事が始まったのかもしれません。陸地測量部も起され、おおあわてで戦闘準備です。そこへ人間のこどもがやってきて、「朝のおかずにしよう」と持っていってしまいます。ありの兵隊たちは、なにがなんだかわからなくて、呆然としています。
 嘉十は山道で手拭をおとしたことにきがついて、取りにもどると、そこでさっき食べた栃の実のだんごが残っているのをみつけて、鹿が集っていました。けれども鹿はだんごのそばに落ちている手拭がこわくて近寄れません。風でふわりと動く手拭を、鹿たちが角でいっせいについてかかると、黒の劇場で幻想的な鹿踊りに展開します。

■賢治とプーク
 やっとでき上ったプークの人形劇場のこけら落しの公演に、われわれが宮沢賢治の作品を取り上げることは偶然ではない。
 戦後劇団を再建して後のプークは、賢治の作品によって自己の足どりをふみかため、たしかめてきたといっても過言ではない。
 1947年5月まだ敗戦後の闇市がむらがり広がる池袋西口にあったスタジオ・デザールで、再建第一回試演会で「オッペルと象」を取りあげ、占領軍司令部の検閲でトラブルをおこしつつも翌年7月には有楽町毎日ホールで、再建第一回公演をおこなって後の全国的上演は、両手使い人形による現代人形劇創造への関心を広汎な層に広めるとともに、その終幕の象たちのコーラスは、戦後のかなり長い時期青年たちの愛唱歌「若者よ、からをきたえておけ」のメロディーとなって歌い続けられた。
 ついで1949年には「セロ弾きのゴーシュ」が井上頼豊氏のチェロ生演奏によって東京と大阪で上演され、大きな反響をよびそれは、53年厚木たか女史プロデュースによるわが国最初の総天然色長編人形映画「セロ弾きのゴーシュ」の制作となり第一回東南アジア映画祭で特別賞を受賞しわが国の人形映画の新しい第一頁をひらいた。
 その後も同じ年の12月と1963年の賢治歿後30周年記念公演にそれぞれ「オッペルと象」を再演している。
 こうしたプークの活動と賢治との深い関係は、実はプークが合法的には活動できなかった戦時中暗い苦しい時代から始まっていたのである。それは敗戦までの暗い厳しい時代に人形劇を愛しプークを支えてきた故梅原喜一、故榊原慎三をはじめわれわれによって温められてきた賢治の卵からヒナが生まれ育ったといってよいだろう。
 その頃のわれわれは、どんなに夜を徹して賢治についてまた彼の作品と人形劇について語り合ったことかーー
 そして今回、賢治の作品の二つ、「ありときのこ」と「鹿踊りのはじまり」を取りあげることになった。後者は比較的初期のものであり、前者は彼の歿した年に発表された作品である。
 私はこの二つの作品をもとに作った「霧と風からきいた話」によって、こどもたちと自然との結びつきをなんとしても取りもどしたいと願う。それは賢治の心であり願いであるはずだし、自らの環境としての自然と自分自身としての人間を破壊しつつある現代にとって最も大きな反省であるだけでなく、こどもたちに人間として成長する最も大切な保証であるはずだからだ。(1971.11.6 川尻泰司)(プーク人形劇場完成記念パンフレットより)

1971年12月 「風と霧からきいた話」より『ありときのこ』舞台写真
1971年12月 「風と霧からきいた話」より『ありときのこ』舞台写真
1971年12月 「風と霧からきいた話」より『鹿踊りのはじまり』舞台写真
1971年12月 「風と霧からきいた話」より『鹿踊りのはじまり』舞台写真
1971年12月 「風と霧からきいた話」より『鹿踊りのはじまり』舞台写真

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ③

今年の11月に劇場誕生50周年を迎えるプーク人形劇場ですが、建物以外にも当時と変わらぬ姿で残されているものがたくさんあります。今回はそのうちの一つである舞台緞帳について、本日発行の「みんなとプーク」第275号より『プーク見聞録』の記事からご紹介いたします。

 “プーク人形劇場は1971年の誕生から今年で50周年を迎えます。人形劇の専門劇場として建設された劇場は国内外から招致された人形劇団の上演のみならず、人間による芝居を行う劇団やパフォーマー、ミュージシャンなどジャンルや手法を問わず、数限ない人達による芸術表現を行う場として賑わって来ました。

 また、そんな彼らの表現の始まりと終わりを告げる緞帳は、劇場と同様に50年間変わることなく、その役目を果たし続けて来ました。今回は、その緞帳について少しお話を致しましょう。

緞帳とアップリケ座布団のベンチ式客席(当時)

 この緞帳に描かれた絵をご覧になって、まず目につくのは藁で編まれた人形ではないでしょうか。また、藁の人形と見て始めに想像されるものは、丑の刻参りなどで用いられる呪術の人形かと思いますが、或いは神を宿らせて遊ばせる形代ではないかとも私は思います。

 そこで、劇団の諸先輩方に人形の正体を伺ったところ、これは田遊びをしている「よなぼ」という名の人形であるとのことです。田遊びとは日本の民俗にある古い慣習の一つで、年の初めに豊作を祈願して行われる行事です。また「よなぼ」は稲の子どもを意味した人形であると言います。緞帳にそれが描かれたのには、長く劇団の代表を務めた川尻泰司の並々ならぬ熱い想いが関係しています。

 劇団のレパートリーに『人形日本風土記』というものがあります。これは川尻泰司が構想から9年の歳月を掛けて、日本の民俗を全国に取材し書き上げた日本の人形の風土記を扱った芝居なのですが、その冒頭に「よなぼ」を踊らせて田遊びを表現した場面があります。

 この脚本を執筆した当時、氏は『人形日本風土記』を、19世紀のチェコに生きた作曲家ベドルジハ・スメタナの組曲『祖国』にも劣らぬ作品に仕上げたいと考え、その挑戦に付随する葛藤を脚本の前書きに記していますので、ここに引用してみましょう。

「私の心の中ではスメタナの『祖国 』にまけないものをつくり上げたいのだ。だがそれは今日は無理である。私にはそれだけの力がない。だがやがてこの作品を更に高める努力を続けることで、やがてはスメタナがその組曲で音楽によって祖国を歌ったものに負けない作品だ。人形によって日本の国土の姿と民族の心を描き語り歌う組劇に作り上げていく事ができると考えている。このたびの舞台はその第一歩なのである。」(一九六九年『人形日本風土記』台本より)

1969年『人形日本風土記』舞台より「田遊び」
1969年『人形日本風土記』舞台より「ちんさぐの花」
1969年『人形日本風土記』舞台より「山嶽の怪」
1969年『人形日本風土記』舞台より「流し雛」
1969年『人形日本風土記』舞台より「六地蔵」

 人形芝居によって日本の国土や民族の心を描き出そうと考えた氏が、緞帳に日本の伝統風景を描いた動機はやはり同じところにあるのでしょう。劇場が誕生した1971年当時は、日本国内が大きく変わっていった時代です。その変化を肌や心で敏感に感じとった氏が、失われていく日本の景色や精神を芝居や緞帳に残そうとしたのかも知れません。

 当時から50年を経て私の目に写るそれは、私たち日本人の帰るべき故郷の原風景にも見えます。昨今、インターネットやSNSなどの普及によって、私たちは容易にコミュニケートす ることが可能となっていますが、もしも私たちが再び共通の環境に立ち帰り、心を自然に返すことが出来れば、そのようなものは必要ではなくなるのかも知れません。

 きっと、現代の私たちに本当に必要なのは使い捨てにされる言葉ではなく、そこにあり続ける詩なのでしょう。この緞帳に描かれた風景にはそんな日本の国土に宿っている詩を私は感じるのであります。(文/池田日明) ”

1971年の年賀状
1980年『人形日本風土記』舞台より
劇場入口の看板にも、藁人形たちがいつでもご来場をお待ちしています

こちらの記事は「みんなとプーク」最新号でじっくりとお読みいただけます。劇団の情報満載の季刊誌、定期購読者も募集中です!

「みんなとプーク」最新号

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ②

劇場誕生50年を記念して、プークに残されている様々な歴史的資料をご紹介するコーナーです。第2回目は、劇場建設計画への意思表示が綴られた劇団発行の新聞「みんなとプーク」第19号(1967年8月20日発行)の記事からです。

1967年8月20日発行「みんなとプーク」第19号

 来る一九六九年はわたしたち人形劇団プークの劇団創立(一九二九年)からちようど四〇周年にあたります。わたしたちはこれを記念して、今日までプークが進めてきた仕事をさらに新しく発展させるために、都心、新宿に人形劇の専門劇場を建設することにいたしました。

 このことはわたしたちにとって長い間の願いでした。

 わたしたち三十年の歩みは、けっしてはなばなしいものではありませんが、プークは常に日本の人形劇をよりよく発展させ、日本中の子どもたちと大人のための現代人形劇を創りだすために努力してきました。

 けれど世界に誇るわが民族の豊かな人形劇の歴史を支え、今日から明日への人形劇を創造していく仕事は容易なことではありません。

 そのことは今日わが国にただ一つの人形劇場さえないことに、最もよく現れていると思います。

 世界各国の人形劇が行われている国々―チェコスロヴァキア、ソヴィエト、ポーランドなど東欧諸国、イギリス、イタリー、オーストリア等西欧各国、アラブ連合、中国等々―それぞれに人形劇場を持っている。

 日本にそれがないのはまことに残念です。

 舞台芸術を創りだしていく仕事のいしずえとしての劇場がもつ意義は、小山内薫、土方与志両先生によって建てられた築地小劇場の歴史が何よりもよくそれを教えてくれます。

 プークがこのたび立てる人形劇場は、一〇〇人から一二〇人の客席をもつ可愛らしい劇場です。けれどその舞台はどんな人形劇も上演することができる総合的舞台機構をもつ人形劇の専門劇場です。

 しかもこの人形劇場は東京の中心新宿駅より徒歩五分のところに建てられ皆さんとみなさんの子どもさんにとって、いつでも人形劇を見られるかつてなかった楽しい文化の宮殿となるでしょう。そしてそれはわたしたちの新しい創造の実験室であり、劇団の多様な活動の堅固な根拠地になるでしょう。

 一九六七年は日本の人形劇運動の歴史にとって大きな意義のある年です。二月には桐竹紋十郎氏を会長にして専門人形劇人数十名が集まって「人形劇人協会」が誕生しました。五月には第二回全国人形劇人会議が東京で全国より数百名の人形劇の仲間が集まって盛大に開かれました。このときにわたしたちが今度の計画を決めたことは、また意味あることと思います。この劇場は日本の人形劇運動にたづさわっている全国の多くの人形劇の仲間たちに広く利用してもらえる人形劇の家になるでしょう。

 わたしたちは、戦後劇団の再建にあたって、第一次・プーク建設計画により、現在地に劇団の建物をつくりました。

 このたびの第二次、プーク建設三ヵ年計画は、本年より劇団創立満四〇年目にあたる一九六九年十二月までの三年間でこの事業をなす考へでおります。

 わたしたちはこの事業がどんなに困難なものであるかをよく知っております。けれどそれは人形劇を愛し、プークを支持してくださる皆さんの力と、私たちプークの力を合わせるなら、それは必ずできるものだということをさらに強く確認いたします。

 この劇場はまた劇団創立者川尻東次をはじめ、永い苦しいプークの歩みの中で尊い生涯をかけてその歴史を築いた多くの誇るべき先輩と協力者たちの記念碑でもあるのです。

 このたび幸にもわが国の演劇界の権威者であり、プークのよき理解者である河竹繁俊先生が、わたしたちの計画の顧問となってくださいました。

 わたしたちは河竹先生をわたしたちの事業の歴史的社会的保証人として、人形劇団プークの劇団員一人一人は、すべての力を出しきってでも、必ずこの計画をなしとげることを、謹んで皆様の前にお約束するとともに、われわれのこの計画に対し、皆様の暖い御理解と御協力添えを心からお願い申し上げる次第です。

  人形劇を愛しプークを支持して下さる皆さんへ!
  昼はこどもが――夜はおとなが――
  いつでも人形劇を見られるために!

 劇団創立四〇周年を記念して六七年から六九年までの三ヵ年計画で、東京新宿に人形劇の専門劇場をつくる、プークの事業に御理解と御協力を!


↑プーク人形劇場建設発足記念集会で掲げられたスローガン

日本で初めての人形劇専門劇場を建設しようという計画が、最初に持ち上がったのは1949年のことでした。本来は国や行政が行う一大事業、夢のまた夢で一度は潰えてしまいますが、その後も熱い思いを抱き続け、1967年ついにその大きな一歩が踏み出されます。7月26日赤坂都民センターにて、劇場建設に向けての説明会が一般公開されました。

↑当時の劇団代表・川尻泰司の挨拶に耳を傾ける全国からの賛同者やテレビ局新聞各社の皆さん
↑俳優座劇場建設のご苦労を経験された千田是也さんのスピーチも

こうして劇場建設という大きな夢へと向かって、少しずつ前進していく劇団員たちですが、目標であった1969年に完成することはなく、目の前にはいくつもの壁が立ちはだかっていたのです。そのお話はまたいずれすることにいたしましょう。

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ①

劇場誕生50周年にちなんで、過去の資料の中から劇場誕生にまつわる写真や記事などを取り上げて、歴史を振り返ってみたいと思います。

第1回目は、1971年、劇場誕生フェスティバルとして記念公演を行った際のパンフレットの中から。数々の著名な方からお祝いのメッセージをお寄せいただきましたが、その一つをご紹介いたします。

プーク人形劇場完成記念パンフレット

『おめでとう』

林家正蔵(落語家)

 人形劇団プークのみなさん。
 こんどみなさんの芸術の殿堂であるプーク人形劇場が、東京都の、新宿区の、その一角に建設された。そのお悦びを心から申しあげます。よくぞ――と、感歎の声と一緒にこえをはりあげて叫びたい。プークのみなさんおめでとうございました。
 人形劇団プークのみなさん。
 みなさんは団体の精神を理解して常に秩序を守り堅固な団結力で芸の高調を期して精進を怠らぬ! これはお世辞ではない――。過去に不思議なご縁でプークへ参加出演した、あたくしの見聞であり体験であるのです。
 聞くところに依ると劇場建設費の大部分は全員の出演料の幾割かを積み立てたお金だそうな。これこそ汗と一致団結の力との結晶でこんな尊い事業はない。ほんとうに頭が下がる。
 人形劇団プークのみなさん。
 建設完成までには苦しい事、つらい事の連続であったこととお察し申しあげる。が、みなさんの熱意が、いま実って金字塔がうち立てられた。プーク全員の総力だ。
 世に素晴らしいとか、一大快心事とか云う言葉があるが、これは人形劇場として唯一のものを建設創始したプークの場合だ。
 ここで私は再び声を大にして叫びたい――
 おめでとうございました。

プーク人形劇場完成記念パンフレット
(1971年11月26日発行)より

林家正蔵出演「怪談噺牡丹燈籠」1967年