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『オカピぼうやのちいさなぼうけん』絵本出版!

絵本表紙

出版社ひさかたチャイルドと長年温めてきた絵本プロジェクト。プーク発のオリジナル絵本『オカピぼうやのちいさなぼうけん』がいよいよ12月下旬に発売されます。
プークの岸本真理子作で、絵は長谷川義史さん。楽しいしかけ絵本です。
全国の書店、またはプークのオンラインショップ「チビの店」でもお買い求めいただけます。
※「チビの店」販売ページは準備中です。

▶︎ひさかたチャイルドのホームページ

楽しい穴あけしかけもあります



プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑦

 本日2021年11月26日、プーク人形劇場は50歳になりました。劇場建設は、戦前より多くの試練、困難を乗り越え、ようやく手にした夢でした。当時の劇団員たちをはじめ、この偉大な事業にかかわったすべての偉大な先人たちに想いを馳せます。”こどもたちの夢と楽しさにあふれた小さな殿堂”であり続けられるよう、私たちは絶やすことなく彼らの想いを受け継ぎ、この劇場から、創造、発信を続けていきます。

▲ プーク人形劇場外観

 さて、前回に引き続き「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)をご紹介いたします。第3部1960~1971(長谷川正明・著)「7,プーク人形劇場の建設」には劇場建設にまつわる歴史的背景や社会的事情などが詳しく書き記されています。劇場建設に向けた、当時の並々ならぬ情熱と執念をお届けできたらと思います。

第二次プーク建設計画――2PP

 劇場建設計画は、1948年の第一次プーク建設プラン――1PPをふまえ、第二次プーク建設プラン――2 PPと名づけた。

 この2PP計画をすすめるために、劇団は映像部門を相対的に独立させ、公演活動をする部門と映像方面を専門とする部門の二つにわけた。それに将来、劇場部門が加わり、三つの部門が確立し、人形劇団プークの活動を積極的に拡大していく方針をとった。 この体制は現在までつづいており、すっかり定着し、それぞれが大きく成長して、今日のプークを形成している。

 初めての人形劇専門劇場の建設となれば、やはり大事業だ。事業のもつ思想性、それをすすめる方針は大きなかなめとなる。そのため河竹繁俊早大名誉教授に建設計画顧問になっていただいた。教授は「大阪の朝日座、東京の国立劇場小劇場と文楽を保存するにはいい劇場がある。しかし現代および将来の人形劇のための専門劇場は なかった。日本がかつての文楽を生んだことを思うと、今日の創造の場がないのは残念だし、おかしなことだ。それがいよいよ、この道ひとすじに生きてきた人形劇団プークの手によって作られようとしている。この壮挙に私は心からの声援をおくりたい。現代の人形劇界で最も長い歴史をもち、しかも伝統の継承発展ということにも深い関心と努力を傾けているプークは、この意義ある事業をなすのに最もふさわしいことは明らかだ。」と就任の弁を語っている。初期の段階ではあったけれど御指導いただいて、まもなく亡くなられてしまった。(1967年12月15日) まことに残念なことであった。先生が亡くなられたあと、御子息の河竹登志夫早大教授がひきつがれて御指導いただいた。

▲ 河竹繁俊氏(左)と川尻泰司
▲ 河竹繁俊氏(左)と川尻泰司

劇場の設計、劇場は風俗営業?

 劇場の基本設計は、主として川尻がヨーロッパ9ヶ国の人形劇場の実地調査をもとにプランをたてた。小さな劇場であってもその舞台はどんな人形劇も上演することができる綜合的な舞台機構をもつ人形劇専門劇場をつくることを目標とした。

 ところがいま劇場が建っている渋谷区代々木2丁目は第二種文教地区であり、劇場はキャバレー、バー、待合などと同じ風俗営業とみなされ、原則として建築できないことになっており、都知事の特別認可が必要だった。多少の困難はあっても私たちの目的は必ず通ずると確信し、常設の専門人形劇場の設計をすすめることを決断した。これがあとでなかなか進捗しない原因となるのだが、常設専門劇場にしたことで、劇場の格からも日常業務の上でも、ずいぶんとあとになってプラスになった。

 建築設計は、劇団創立メンバーの潮田税(当時、日東建設取締役)の友人で、綜合建築研究所長 片岡正路技師に依頼した。潮田には、設計顧問として相談にのってもらった。片岡は現在の日比谷公会堂の設計メンバーのひとりであり、昔気質の、質素で実用的な建物を建てるといった思想の持ち主だった。私たちの意見を面倒がらず聞きいれ、敷地3坪の土地に、地上5階、地下3階、現代人形劇の舞台機構と106席の客席をそなえた劇場、 「まるで潜水艦のなかのような」といわれたこまかい面倒な設計図をつくりあげた。そしてこの後、4年にわたる都の建築行政部門との折衡、図面の変更と辛抱づよく私たちと行をともにし、あるときは「しんぼう、しんぼう」と励まし、また慰めて、希望をもちつつ指導された。設計料は実費程度しか受けとらず、劇場完成をわがことのように喜ばれた。劇場完成してまもなく、引退され、3年ほどして病気で亡くなられた。 1967年7月26日、プーク人形劇場建設のプログラムを発表した。全国からたくさんの激励の手紙、電話がよせられ、また建設資金の一部にと、カンパが送られてきた。

 建築許可の申請を都に提出したが、第二種文教地区への劇場建設は、知事の特別認可が必要であり、その申請の書類作成には、都の建設局建築指導部の指導が必要であるという。その指導で何回か図面を書き直し、申請しようとするとその指導部長が他へ転勤する。つぎの新しい指導部長は、別の意見をもっていて、図面を書き直させる。1968年もすぎ、工事着工予定の69年になっても、許可はおりず、見とおしも立たなかった。そこで 旭川の松井恒幸の友人で、五十嵐旭川市長に都知事への紹介を依頼する一方で、プークの近所に住まわれ、朝夕挨拶をかわしていた市川房枝元参議院議員に事情をお話し、美濃部都知事への斡旋をお願いした。 1970年9月、都知事の特別認可で、建築許可証をようやく手にすることができた。 計画をたててから満6年、この間インフレによる諸物価の値上がりはたいへんだ。とくに建築資材は70年に大阪で開かれた万国博覧会の会場建設で高騰していた。また消防法が毎年のように改正され、消防設備、保安設 備の追加で、建築予算は5000万円から契約時では、7000万円にふくれていた。

 このため、1970年から1971年にかけ、劇団員の積立ては、10%から35%にひきあげられた。また各界の人たちから、貸してあげようとの申し出があり、作家の方がたからは執筆料をカンパしていただき、またこの期間に、多くの賞を受賞した。いろいろな方法で有形無形の協力が各方面からよせられた。さいわいこの5年の間に劇団の収入は大幅に増加し、予算のオーバーも充分うめることができそうであった。

 1970年12月30日、大晦日にあと一日の暮もおしつまった日の夕方、建築会社と正式契約をむすび契約金を支払った。 1971年2月10日、地鎮祭、翌日から工事がはじまり、7月25日上棟式と工事は順調に進んだ。

▲ 1972年12月17日 美濃部都知事と市川房枝氏( プーク人形劇場誕生1周年記念公演「12の月のたき火」を子どもたちと一緒に観劇 )

プーク人形劇場の完成

 1971年11月26日、プーク人形劇場は完成した。 この日は劇団創立者川尻東次の命日にあたる。劇場前面の壁に川尻泰司のデザインで劇団40年の歴史とそのなかで亡くなった先輩たちの名が刻まれた。それは川尻と彫刻家野口鎮の二人が主になって彫刻し、劇団のものそれぞれがひと鑿づつ彫ったものである。そのため建物全体が大きな記念碑となっていて、いかにも現代人形劇の劇場らしい特色と風格をもつ建物となった。 舞台の緞帳は川尻のデザインで、素朴な藁人形の絵が川尻と中山杜卉子によって直接絵の具で描かれた。 開場当日は各界の人びとを招いて落成披露をおこなった。28日には劇団の先輩、友人、家族のものたちと祝いの会をもった。

 劇場の柿落しは12月10日で、演目はこどものために川尻東次脚色のアンデルセンの『はだかの王様』と宮沢賢治原作、川尻泰司脚色の『霧と風からきいた話』の二作品を昼の部で、おとなのために『ファウスト博士』 第一部序幕を夜の部で公演した。

 また劇場完成を記念し、人形劇団クラルテが『千鳥の歌』、ひとみ座が『怪猫宇都谷峠』と『艶容女舞衣・酒屋の段』、竹田人形座は『雪ん子』、『鬼一法眼三略巻 五条橋の段』をそれぞれ上演し祝ってくれた。劇場完成のニュースは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで画期的なことと報道された。北海道から沖縄まで全国各地から祝いの電報、電話がよせられ、海外の人形劇人からも手紙がおくられてきた。 劇場完成にあたって川尻泰司は劇団を代表し、次のように述べている。(劇場完成記念パンフレットNo,45)

(前略)劇場の完成には初期の3ヵ年計画が2年延期され、5ヵ年間の期間を要し2年延びてちょうど42周年目にでき上るということにはなった。しかし約束を果したという安心感とともに、われわれにとって は、やはり大きな喜びである。だがそれは、われわれが更に新しいスタートラインに立ったことを意味す る。それは、仏つくって魂入れず。ということになっては何もならないことだからである。 われわれの新しい段階の意味するものは、プーク自身とその仕事が、真に現代人形劇芸術の創造と建設に更に一歩深まったものとして成長することであり、それとともに、劇場を中心とした事業の経営ということにも、資本主義的社会条件の中で一人前の仕事ができるだけに成長しつつ、なお本来の芸術的文化的活動の本質的成長を計っていかなければならないことだろう。 われわれが今後の活動でそのような成果を上げ得ていくなら、このプーク人形劇場――全長にして奈良の大仏のほぼ2倍にあたる高さのこのビルディングは、プーク42年の歩みを記念するだけでなく、わが国の現代人形劇発展の歴史を語る巨大な碑として存在しつづけるだろう。(中略)残されたことは、この碑に本当のプークの魂を生かし続けることだ。

 プーク人形劇場の誕生は、プークの歴史を、劇場の誕生以前と以後とにわけるほどの影響を与えた。1970年代、80年代のプークの活動は、この劇場を中心にして行なわれ国際活動の場ともなった。こどもたちにとってはいつでも人形劇が見られる楽しい劇場となり、劇団の創造の実験室であり、劇団の多様な活動の堅固な根拠地となっている。

 なお2000万円にのぼる建設資金の借入金は、1977年にはすべて返済を終了した。ひきつづく劇団収入の増収が大きく寄与したが、1973年のOPECの石油価格大幅値上げによるいわゆる石油ショックで、物価は3割、5割の値上がりとなるインフレが、逆に借入金の負担を軽くした。建設があと2年おくれていたら建設資材の暴騰で、劇場建設は私たちの手のとどかない彼方にいっていたにちがいない。

▲ 1971年11月26日 プーク人形劇場誕生記念パーティー
▲ 劇場案内リーフレット外面
▲ 劇場案内リーフレット外中面

※劇場の建物内部は現在の仕様と異なることがございます。詳しくお知りになりたい方はお問い合わせください。

▲世界中から集められた人形が並ぶ ロビー売店
▲美味しいコーヒーに手作りケーキが自慢のカフェ

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑥

プークの歴史を調べるときに、定本としている資料があります。それは「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)です。時代ごとに第5部から成るそれは、当事者であるメンバーが中心となって執筆を担当し、当時の劇団の内情を事細かに伝える記録として大変貴重な資料です。今回はその第3部1960~1971(長谷川正明・著)の「7,プーク人形劇場の建設」より2回に渡って全文抜粋いたします。

▲「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)

人形劇場への夢

 「人形劇の専門劇場を建てる」という夢は、人形劇人がもつ共通の夢だ。プークの創立からこれまで、どれほどのひとがどれだけの数、夢見たことだろう。この夢を現実のものにしようとしたのが、1964年12月の劇団総会であった。総会はさまざまな討議のあと、「1969年の劇団創立40周年に、プークの人形劇専門劇場を五ヵ年計画で建設しよう!」と全員拍手でしめくくった。

 人形劇場建設の初めての計画は、1949年・第一次プーク建設計画―1PPの最終計画に組みこまれていた。それは当時、民主主義の文化をになう意気ごみの若いプークの夢であり、ロマンチシズムだった。しかし活動がはじまったばかりで、劇団経営の経験は浅く、時代を見通す力も弱かった。誤算と過信がかさなって、ついには夢のままで終った。

 ロマンを夢のままで終らせずに、現実のものとするためには、劇場についての認識と劇場建設を遂行できる経済力、それに劇場を運営維持できる劇団の能力が不可欠である。劇団アンサンブルが劇場を持つことで、創造活動にどういうメリットがあるのか、経営が成り立つのか、デメリットは、公演活動はどうなるのか、教育活動は、運動にどう影響するか、理解できるところと、はかりしれないところとを一緒にして、総合してひとつひとつを確かめていくほかなかった。なにしろ初めてのことなのだから。さいわい劇団の力量は、アンサンブルの安定、経営力の増大、観客支持層のひろがり、そして劇団指導部の多くの経験と指導力、すべての点で、50年代とは比較にならぬほどの成長をしめしていた。

 当時、いま劇場がたっている場所に、建坪20坪の木造2階屋が立ち、そのなかに劇団事務所、稽古場、アトリエが同居していた。1959年に地主の藤島家と和解し、建てられたものだが、安普請ため、2階の重みで1階の柱に大きなひび割れができるなど、建物として危険な状態にあった。それに事務所も稽古場も美術アトリエも、それぞれが手ぜまになり、新しい稽古場の建築が待たれていた。

1948年6月
1959年7月改築(1970年撮影)

 新しい建物の規模は、すくなくとも3階建てか4階建てを考え、建築費は、当時の金で3500万円から4000万円と見積もった。

 1964年、2度目のヨーロッパ視察から帰国した川尻は、各国の人形劇場を実際に調べ歩いて、かなり具体的なイメージをもって、劇場建設の計画を提案した。初めの案は、劇場と稽古場をかねたものだったが、話し合っていくうち、劇場とはなにか、劇場をもったアンサンブルとは、どんな形態をもつのか、劇場の機構は、人形劇場と他の劇場とでは、どう違いがあるのか、その運営はどうするのか、劇団内の討論はだんだんと熱をおび、計画は次第に大きくなり、具体的なものとなっていった。資金も5000万円を少しうわまわるかもしれない。機材や設備はあとで少しずつ加えていこう。この規模なら少し借金すればできるだろうと思った。

 劇場建設の予定地は、現在の稽古場敷地40坪弱の地ときめた。せまいという声もあったが、新宿副都心として将来発展する現在地は、劇場にふさわしい地であり、それは土地の狭さを考慮に入れても、かえがたい利点だとする川尻の案がいれられた。1984年の今日、新宿副都心の一角に、劇場が存在することが、いかに大きいかがわかる。

劇場建設の資金計画

 自分たちの劇場をつくるのだから、当然自分たちで資金をつくることが基本である。資金計画は、建設資金の70%を自分たちでつくり、あとの30%を銀行ならびにプークの友人、支持者から借り入れる計画をたてた。またこの計画を運動として盛りあげひろめるために、建設記念バッジや人形をつくり、販売するカンパニアを起すことにした。64年当時の劇団メンバーは27人、年間総収入1600万円ほどである。

▲建設記念バッジを買う親子(1967年)
▲バッジのデザインは毎年変えられた(1年ごとに一人二人三人と仲間が増えていく)
劇場誕生の案内状
(”バッジを胸につけてこられたお子様は、本公演に御招待いたします”と書かれている)

 自己資金をつくるため、劇団員は総会で決議した翌1月から、自分の給料の9%を建設資金に積み立てることを決め、給料天引きの積立てがおこなわれた。毎月の給料のほか、劇団に収益がでれば、それはかならず給料として分配されるから、これが一番確実な方法だった。このような方法がとれたのは、「こどものための人形劇」公演の成功で、劇団経営が安定し、劇団員の給料が毎月きちんと出せるようになったからである。また映像部門は第2制作部として相対的に独自な経営で成長していき、この二つの部門の活動の拡大で、劇団の収入は毎年30%から40%増の伸び率を示した。劇団員の給料は、国民の標準収入にくらべ、まだ半分にみたないけれど、収入増にともない給料の引き上げが、毎年のようにおこなわれていた。その頃の日本経済は、所得倍増、拡大再生産のかけ声で、消費景気をあおり、インフレを承知で景気拡大をはかっていた、いわゆる第二次高度成長の時代であった。

 積立ては、劇団員のみに限られ、研究生や職員はしなくともよかった。この積立金は、のちに劇場の資本金に充当され、劇団員全員が株主になった。

 資金づくりのもう一つは、銀行から低利の金を、借入することである。

 始め、取引銀行の貸付課長に相談にいくと「プークさん、おやめなさい。投資をしてそれから利益があがるなら結構ですが、小さな劇場では採算はとれず、いまのプークにたいへんな負担になります」と逆に意見されてしまった。資金の給料天引き案も「いまでも低いプークの皆さんの給料に、それは無謀というものです。とても続きません」と信じてもらえなかった。

 しかし1965年1月からはじめた積立金が、定期預金に2年、3年と預けられていくと、銀行は信じられない面もちで、こんどは感心しだし、すっかり信用してもらえるようになった。さっそく環境衛生金庫からの融資に動いてもらい、それに銀行からの融資も加わり、借入の目途も立つようになった。

 この資金計画、調達の中心になって働いたのは、劇団財政部長をしていた梅原一男である。梅原は川尻の小学校の同窓で、47年、劇団再建当時、川尻の誘いでプークに入団し、劇団財政の仕事をそれ以来ずっとひきうけてきた。財政の窮乏化が日常的になった50年代、毎日毎日が火の車で、電気もガスもとめられ、しかし劇団は新しい作品を仕込んで公演する。それをうけて借金につぐ借金をかさね、ホーチミンの如きしぶとい人だと陰口も尊敬をこめていわれながら、劇団の財政を守ってきた。1953年秋、『バヤヤ王子』公演の準備中に結核で喀血し、急遽入院し2年の療養のあと、再び劇団活動に復帰した。建設資金の調達は、彼の長い劇団経歴と信用が、大きな力となった。1969年、彼は後輩に仕事を託し退団し、彼自身が望んでいた田園生活にはいっていった。

 融資銀行の目途もついた1966年、劇場建設工事中の稽古場を確保するため、田無市芝久保に土地百坪を購入し、翌年、この土地に中古のプレハブで稽古場と倉庫、それに木造の住宅を建てた。(次回へつづく)

▲カンパ芳名簿

人形劇団プーク養成所 短期コース2021年度

第9期目となる『人形劇団プーク養成所短期コース』開講します。
募集ページをアップしました。
詳しくは、こちらをご覧ください。


日時/2022年1月15日〜2月19日の期間中、毎週土曜日17時〜20時
会場/プーク人形劇場5階
応募資格/経験不問、プロの人形劇人を目指す方

応募締切/2021年12月20日(月)定員8名
(定員になり次第締め切ります)

【お問い合わせ】
人形劇団プーク 養成所短期コース係 TEL : 03-3370-5128

【増席します】秋の大新作落語まつり

10月1日からの緊急事態宣言の解除を受け、

 秋の新作落語寄席は定員を増やすことにいたしました!!

本来の座席定員106名に対し、53名までと制限しておりましたが、70名まで受け入れを拡大いたします。

9/28に発出された「東京都におけるリバウンド防止措置」にのっとり、東京都興行生活衛生同業組合が設定した営業方針のもと、定員増を決定いたしました。

感染症対策は従来通り、ガイドラインを守り徹底して行いますので、ご来場の際はマスク着用や手指消毒など、ご協力をお願いいたします。
プーク人形劇場の感染症対策はこちら >

【ご予約・お問合せ】
新規のご予約は、お電話での受付を優先させていただきます。
プーク人形劇場 TEL:03₋3379₋0234
受付対応時間 10:00~17:30
※時間外だと対応が行き届かない場合がございます。あらかじめご了承ください。


※20日・22日はすでに満席となりました。
 キャンセル待ちもお電話でのみ受付いたします。(10月1日付)

顔付けは▼

SNSにて残席状況を適宜更新いたします。併せてご確認ください。
プーク人形劇場公式Twitter @theatrepuk

少しでも多くのお客様に楽しんでいただきたいと思っております。
皆様のご来場、心よりお待ちしております。

10月4日 プーク人形劇場