2021年11月26日
プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑦
本日2021年11月26日、プーク人形劇場は50歳になりました。劇場建設は、戦前より多くの試練、困難を乗り越え、ようやく手にした夢でした。当時の劇団員たちをはじめ、この偉大な事業にかかわったすべての偉大な先人たちに想いを馳せます。”こどもたちの夢と楽しさにあふれた小さな殿堂”であり続けられるよう、私たちは絶やすことなく彼らの想いを受け継ぎ、この劇場から、創造、発信を続けていきます。
さて、前回に引き続き「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)をご紹介いたします。第3部1960~1971(長谷川正明・著)「7,プーク人形劇場の建設」には劇場建設にまつわる歴史的背景や社会的事情などが詳しく書き記されています。劇場建設に向けた、当時の並々ならぬ情熱と執念をお届けできたらと思います。
第二次プーク建設計画――2PP
劇場建設計画は、1948年の第一次プーク建設プラン――1PPをふまえ、第二次プーク建設プラン――2 PPと名づけた。
この2PP計画をすすめるために、劇団は映像部門を相対的に独立させ、公演活動をする部門と映像方面を専門とする部門の二つにわけた。それに将来、劇場部門が加わり、三つの部門が確立し、人形劇団プークの活動を積極的に拡大していく方針をとった。 この体制は現在までつづいており、すっかり定着し、それぞれが大きく成長して、今日のプークを形成している。
初めての人形劇専門劇場の建設となれば、やはり大事業だ。事業のもつ思想性、それをすすめる方針は大きなかなめとなる。そのため河竹繁俊早大名誉教授に建設計画顧問になっていただいた。教授は「大阪の朝日座、東京の国立劇場小劇場と文楽を保存するにはいい劇場がある。しかし現代および将来の人形劇のための専門劇場は なかった。日本がかつての文楽を生んだことを思うと、今日の創造の場がないのは残念だし、おかしなことだ。それがいよいよ、この道ひとすじに生きてきた人形劇団プークの手によって作られようとしている。この壮挙に私は心からの声援をおくりたい。現代の人形劇界で最も長い歴史をもち、しかも伝統の継承発展ということにも深い関心と努力を傾けているプークは、この意義ある事業をなすのに最もふさわしいことは明らかだ。」と就任の弁を語っている。初期の段階ではあったけれど御指導いただいて、まもなく亡くなられてしまった。(1967年12月15日) まことに残念なことであった。先生が亡くなられたあと、御子息の河竹登志夫早大教授がひきつがれて御指導いただいた。
劇場の設計、劇場は風俗営業?
劇場の基本設計は、主として川尻がヨーロッパ9ヶ国の人形劇場の実地調査をもとにプランをたてた。小さな劇場であってもその舞台はどんな人形劇も上演することができる綜合的な舞台機構をもつ人形劇専門劇場をつくることを目標とした。
ところがいま劇場が建っている渋谷区代々木2丁目は第二種文教地区であり、劇場はキャバレー、バー、待合などと同じ風俗営業とみなされ、原則として建築できないことになっており、都知事の特別認可が必要だった。多少の困難はあっても私たちの目的は必ず通ずると確信し、常設の専門人形劇場の設計をすすめることを決断した。これがあとでなかなか進捗しない原因となるのだが、常設専門劇場にしたことで、劇場の格からも日常業務の上でも、ずいぶんとあとになってプラスになった。
建築設計は、劇団創立メンバーの潮田税(当時、日東建設取締役)の友人で、綜合建築研究所長 片岡正路技師に依頼した。潮田には、設計顧問として相談にのってもらった。片岡は現在の日比谷公会堂の設計メンバーのひとりであり、昔気質の、質素で実用的な建物を建てるといった思想の持ち主だった。私たちの意見を面倒がらず聞きいれ、敷地3坪の土地に、地上5階、地下3階、現代人形劇の舞台機構と106席の客席をそなえた劇場、 「まるで潜水艦のなかのような」といわれたこまかい面倒な設計図をつくりあげた。そしてこの後、4年にわたる都の建築行政部門との折衡、図面の変更と辛抱づよく私たちと行をともにし、あるときは「しんぼう、しんぼう」と励まし、また慰めて、希望をもちつつ指導された。設計料は実費程度しか受けとらず、劇場完成をわがことのように喜ばれた。劇場完成してまもなく、引退され、3年ほどして病気で亡くなられた。 1967年7月26日、プーク人形劇場建設のプログラムを発表した。全国からたくさんの激励の手紙、電話がよせられ、また建設資金の一部にと、カンパが送られてきた。
建築許可の申請を都に提出したが、第二種文教地区への劇場建設は、知事の特別認可が必要であり、その申請の書類作成には、都の建設局建築指導部の指導が必要であるという。その指導で何回か図面を書き直し、申請しようとするとその指導部長が他へ転勤する。つぎの新しい指導部長は、別の意見をもっていて、図面を書き直させる。1968年もすぎ、工事着工予定の69年になっても、許可はおりず、見とおしも立たなかった。そこで 旭川の松井恒幸の友人で、五十嵐旭川市長に都知事への紹介を依頼する一方で、プークの近所に住まわれ、朝夕挨拶をかわしていた市川房枝元参議院議員に事情をお話し、美濃部都知事への斡旋をお願いした。 1970年9月、都知事の特別認可で、建築許可証をようやく手にすることができた。 計画をたててから満6年、この間インフレによる諸物価の値上がりはたいへんだ。とくに建築資材は70年に大阪で開かれた万国博覧会の会場建設で高騰していた。また消防法が毎年のように改正され、消防設備、保安設 備の追加で、建築予算は5000万円から契約時では、7000万円にふくれていた。
このため、1970年から1971年にかけ、劇団員の積立ては、10%から35%にひきあげられた。また各界の人たちから、貸してあげようとの申し出があり、作家の方がたからは執筆料をカンパしていただき、またこの期間に、多くの賞を受賞した。いろいろな方法で有形無形の協力が各方面からよせられた。さいわいこの5年の間に劇団の収入は大幅に増加し、予算のオーバーも充分うめることができそうであった。
1970年12月30日、大晦日にあと一日の暮もおしつまった日の夕方、建築会社と正式契約をむすび契約金を支払った。 1971年2月10日、地鎮祭、翌日から工事がはじまり、7月25日上棟式と工事は順調に進んだ。
プーク人形劇場の完成
1971年11月26日、プーク人形劇場は完成した。 この日は劇団創立者川尻東次の命日にあたる。劇場前面の壁に川尻泰司のデザインで劇団40年の歴史とそのなかで亡くなった先輩たちの名が刻まれた。それは川尻と彫刻家野口鎮の二人が主になって彫刻し、劇団のものそれぞれがひと鑿づつ彫ったものである。そのため建物全体が大きな記念碑となっていて、いかにも現代人形劇の劇場らしい特色と風格をもつ建物となった。 舞台の緞帳は川尻のデザインで、素朴な藁人形の絵が川尻と中山杜卉子によって直接絵の具で描かれた。 開場当日は各界の人びとを招いて落成披露をおこなった。28日には劇団の先輩、友人、家族のものたちと祝いの会をもった。
劇場の柿落しは12月10日で、演目はこどものために川尻東次脚色のアンデルセンの『はだかの王様』と宮沢賢治原作、川尻泰司脚色の『霧と風からきいた話』の二作品を昼の部で、おとなのために『ファウスト博士』 第一部序幕を夜の部で公演した。
また劇場完成を記念し、人形劇団クラルテが『千鳥の歌』、ひとみ座が『怪猫宇都谷峠』と『艶容女舞衣・酒屋の段』、竹田人形座は『雪ん子』、『鬼一法眼三略巻 五条橋の段』をそれぞれ上演し祝ってくれた。劇場完成のニュースは、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで画期的なことと報道された。北海道から沖縄まで全国各地から祝いの電報、電話がよせられ、海外の人形劇人からも手紙がおくられてきた。 劇場完成にあたって川尻泰司は劇団を代表し、次のように述べている。(劇場完成記念パンフレットNo,45)
(前略)劇場の完成には初期の3ヵ年計画が2年延期され、5ヵ年間の期間を要し2年延びてちょうど42周年目にでき上るということにはなった。しかし約束を果したという安心感とともに、われわれにとって は、やはり大きな喜びである。だがそれは、われわれが更に新しいスタートラインに立ったことを意味す る。それは、仏つくって魂入れず。ということになっては何もならないことだからである。 われわれの新しい段階の意味するものは、プーク自身とその仕事が、真に現代人形劇芸術の創造と建設に更に一歩深まったものとして成長することであり、それとともに、劇場を中心とした事業の経営ということにも、資本主義的社会条件の中で一人前の仕事ができるだけに成長しつつ、なお本来の芸術的文化的活動の本質的成長を計っていかなければならないことだろう。 われわれが今後の活動でそのような成果を上げ得ていくなら、このプーク人形劇場――全長にして奈良の大仏のほぼ2倍にあたる高さのこのビルディングは、プーク42年の歩みを記念するだけでなく、わが国の現代人形劇発展の歴史を語る巨大な碑として存在しつづけるだろう。(中略)残されたことは、この碑に本当のプークの魂を生かし続けることだ。
プーク人形劇場の誕生は、プークの歴史を、劇場の誕生以前と以後とにわけるほどの影響を与えた。1970年代、80年代のプークの活動は、この劇場を中心にして行なわれ国際活動の場ともなった。こどもたちにとってはいつでも人形劇が見られる楽しい劇場となり、劇団の創造の実験室であり、劇団の多様な活動の堅固な根拠地となっている。
なお2000万円にのぼる建設資金の借入金は、1977年にはすべて返済を終了した。ひきつづく劇団収入の増収が大きく寄与したが、1973年のOPECの石油価格大幅値上げによるいわゆる石油ショックで、物価は3割、5割の値上がりとなるインフレが、逆に借入金の負担を軽くした。建設があと2年おくれていたら建設資材の暴騰で、劇場建設は私たちの手のとどかない彼方にいっていたにちがいない。
※劇場の建物内部は現在の仕様と異なることがございます。詳しくお知りになりたい方はお問い合わせください。