2021年10月22日
プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑥
プークの歴史を調べるときに、定本としている資料があります。それは「現代人形劇創造の半世紀ー人形劇団プーク55年の歩みー」(編著者/川尻泰司、未来社刊)です。時代ごとに第5部から成るそれは、当事者であるメンバーが中心となって執筆を担当し、当時の劇団の内情を事細かに伝える記録として大変貴重な資料です。今回はその第3部1960~1971(長谷川正明・著)の「7,プーク人形劇場の建設」より2回に渡って全文抜粋いたします。
人形劇場への夢
「人形劇の専門劇場を建てる」という夢は、人形劇人がもつ共通の夢だ。プークの創立からこれまで、どれほどのひとがどれだけの数、夢見たことだろう。この夢を現実のものにしようとしたのが、1964年12月の劇団総会であった。総会はさまざまな討議のあと、「1969年の劇団創立40周年に、プークの人形劇専門劇場を五ヵ年計画で建設しよう!」と全員拍手でしめくくった。
人形劇場建設の初めての計画は、1949年・第一次プーク建設計画―1PPの最終計画に組みこまれていた。それは当時、民主主義の文化をになう意気ごみの若いプークの夢であり、ロマンチシズムだった。しかし活動がはじまったばかりで、劇団経営の経験は浅く、時代を見通す力も弱かった。誤算と過信がかさなって、ついには夢のままで終った。
ロマンを夢のままで終らせずに、現実のものとするためには、劇場についての認識と劇場建設を遂行できる経済力、それに劇場を運営維持できる劇団の能力が不可欠である。劇団アンサンブルが劇場を持つことで、創造活動にどういうメリットがあるのか、経営が成り立つのか、デメリットは、公演活動はどうなるのか、教育活動は、運動にどう影響するか、理解できるところと、はかりしれないところとを一緒にして、総合してひとつひとつを確かめていくほかなかった。なにしろ初めてのことなのだから。さいわい劇団の力量は、アンサンブルの安定、経営力の増大、観客支持層のひろがり、そして劇団指導部の多くの経験と指導力、すべての点で、50年代とは比較にならぬほどの成長をしめしていた。
当時、いま劇場がたっている場所に、建坪20坪の木造2階屋が立ち、そのなかに劇団事務所、稽古場、アトリエが同居していた。1959年に地主の藤島家と和解し、建てられたものだが、安普請ため、2階の重みで1階の柱に大きなひび割れができるなど、建物として危険な状態にあった。それに事務所も稽古場も美術アトリエも、それぞれが手ぜまになり、新しい稽古場の建築が待たれていた。
新しい建物の規模は、すくなくとも3階建てか4階建てを考え、建築費は、当時の金で3500万円から4000万円と見積もった。
1964年、2度目のヨーロッパ視察から帰国した川尻は、各国の人形劇場を実際に調べ歩いて、かなり具体的なイメージをもって、劇場建設の計画を提案した。初めの案は、劇場と稽古場をかねたものだったが、話し合っていくうち、劇場とはなにか、劇場をもったアンサンブルとは、どんな形態をもつのか、劇場の機構は、人形劇場と他の劇場とでは、どう違いがあるのか、その運営はどうするのか、劇団内の討論はだんだんと熱をおび、計画は次第に大きくなり、具体的なものとなっていった。資金も5000万円を少しうわまわるかもしれない。機材や設備はあとで少しずつ加えていこう。この規模なら少し借金すればできるだろうと思った。
劇場建設の予定地は、現在の稽古場敷地40坪弱の地ときめた。せまいという声もあったが、新宿副都心として将来発展する現在地は、劇場にふさわしい地であり、それは土地の狭さを考慮に入れても、かえがたい利点だとする川尻の案がいれられた。1984年の今日、新宿副都心の一角に、劇場が存在することが、いかに大きいかがわかる。
劇場建設の資金計画
自分たちの劇場をつくるのだから、当然自分たちで資金をつくることが基本である。資金計画は、建設資金の70%を自分たちでつくり、あとの30%を銀行ならびにプークの友人、支持者から借り入れる計画をたてた。またこの計画を運動として盛りあげひろめるために、建設記念バッジや人形をつくり、販売するカンパニアを起すことにした。64年当時の劇団メンバーは27人、年間総収入1600万円ほどである。
(”バッジを胸につけてこられたお子様は、本公演に御招待いたします”と書かれている)
自己資金をつくるため、劇団員は総会で決議した翌1月から、自分の給料の9%を建設資金に積み立てることを決め、給料天引きの積立てがおこなわれた。毎月の給料のほか、劇団に収益がでれば、それはかならず給料として分配されるから、これが一番確実な方法だった。このような方法がとれたのは、「こどものための人形劇」公演の成功で、劇団経営が安定し、劇団員の給料が毎月きちんと出せるようになったからである。また映像部門は第2制作部として相対的に独自な経営で成長していき、この二つの部門の活動の拡大で、劇団の収入は毎年30%から40%増の伸び率を示した。劇団員の給料は、国民の標準収入にくらべ、まだ半分にみたないけれど、収入増にともない給料の引き上げが、毎年のようにおこなわれていた。その頃の日本経済は、所得倍増、拡大再生産のかけ声で、消費景気をあおり、インフレを承知で景気拡大をはかっていた、いわゆる第二次高度成長の時代であった。
積立ては、劇団員のみに限られ、研究生や職員はしなくともよかった。この積立金は、のちに劇場の資本金に充当され、劇団員全員が株主になった。
資金づくりのもう一つは、銀行から低利の金を、借入することである。
始め、取引銀行の貸付課長に相談にいくと「プークさん、おやめなさい。投資をしてそれから利益があがるなら結構ですが、小さな劇場では採算はとれず、いまのプークにたいへんな負担になります」と逆に意見されてしまった。資金の給料天引き案も「いまでも低いプークの皆さんの給料に、それは無謀というものです。とても続きません」と信じてもらえなかった。
しかし1965年1月からはじめた積立金が、定期預金に2年、3年と預けられていくと、銀行は信じられない面もちで、こんどは感心しだし、すっかり信用してもらえるようになった。さっそく環境衛生金庫からの融資に動いてもらい、それに銀行からの融資も加わり、借入の目途も立つようになった。
この資金計画、調達の中心になって働いたのは、劇団財政部長をしていた梅原一男である。梅原は川尻の小学校の同窓で、47年、劇団再建当時、川尻の誘いでプークに入団し、劇団財政の仕事をそれ以来ずっとひきうけてきた。財政の窮乏化が日常的になった50年代、毎日毎日が火の車で、電気もガスもとめられ、しかし劇団は新しい作品を仕込んで公演する。それをうけて借金につぐ借金をかさね、ホーチミンの如きしぶとい人だと陰口も尊敬をこめていわれながら、劇団の財政を守ってきた。1953年秋、『バヤヤ王子』公演の準備中に結核で喀血し、急遽入院し2年の療養のあと、再び劇団活動に復帰した。建設資金の調達は、彼の長い劇団経歴と信用が、大きな力となった。1969年、彼は後輩に仕事を託し退団し、彼自身が望んでいた田園生活にはいっていった。
融資銀行の目途もついた1966年、劇場建設工事中の稽古場を確保するため、田無市芝久保に土地百坪を購入し、翌年、この土地に中古のプレハブで稽古場と倉庫、それに木造の住宅を建てた。(次回へつづく)
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