2022年7月27日
プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑬
皆さん、こんにちは。暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。人形劇団プークでは、明日から夏の公演『エルマーのぼうけん』を紀伊國屋ホールにて行います。
プークは1965年のNHK教育テレビ『エルマーのぼうけん』放送に関わったことをきっかけに、その内容に惚れ込み同年には舞台初演を果たしました。その頃の日本は、子どもたちを取り巻く文化状況が過渡期を迎え、プークは子どもたちのためにどのような人形劇を創っていくか模索している時期でもありました。
『エルマーのぼうけん』との出会いは、その後の子ども劇場・おやこ劇場運動へもつながり、プークの活動は全国へと広がっていきました。以来、再創造を重ね、プークの大切な作品として受け継がれています。今回ご覧いただく『エルマーのぼうけん』は、2017年にアメリカ在住の原作者R.Sガネットさんのご自宅を訪ねたところからスタートし、ブルガリアの人形劇界を牽引する美術家マィア・ペトロヴァ氏をお迎えしての大プロジェクトとして誕生しました。たくさんの出会いを経て、この度ファイナル公演となります。
皆さんそれぞれに想いの詰まったこの『エルマーのぼうけん』ですが、空を飛ぶことについてのこんな見方もあるかもしれません。今月発行の 「みんなとプーク」第280夏号 『プーク見聞録』のコーナーから、ご提案いたします。こちらの記事を読まれたあとには、きっと新たな視点で『エルマーのぼうけん』をお楽しみいただけることと思います。ぜひ劇場でお待ちしております。
プーク見聞録 その6 ~空のイメージ~
「ぼくは将来ぜったい飛行機乗りになるよ」夏の波止場で少年は語る。沖には蒸汽船、激しく吹く汽笛すら水平線の彼方へ吸い込まれてしまいそうな田舎の港町。空ではただ鴎(かもめ)が鳴いている。R・S・ガネット原作による人形劇『エルマーのぼうけん』はそんな情景に始まります。有史より、人は空に焦がれ、幾度となく飛行を夢見て来ました。その憧れは神話や宗教画の図象などに残され、やがて科学技術の発達により実現されました。今回は、空や飛行についてお話しましょう。
ギリシャ神話に語られるイカロスの翼は、人間の傲慢を開示する悲喜劇であると共に、普遍的な空への憧憬を描いた一遍です。ダイダロスの作った人工の翼は、父子のみでなく多くの人々を空へと駆り立てました。11世紀の英国に実在したとされる修道士もその一人で、エイルマーという名のその若者、神話の叙述を現実と思い込み、ダイダロスに倣い細工した翼で塔の上から飛び立ったといいます。無念にもこの若者は、夢の代償に大きな怪我を負ったと伝えられていますが、このような実験例は古今東西に多く残されています。やがて時は経ち、18世紀には科学技術を応用した乗り物による飛行実験が欧州で行われるようになりました。その歴史は空を漂う気球に始まり、翌世紀の半ばには動力と舵を備えた飛行船が発明されました。この空飛ぶ船により、ついに人類は自らの意思による飛行を成し得たのです。以降、航空技術の発展は日進月歩の時代を迎え、20世紀初頭に誕生した飛行機により空は速度の百年を駆け行きました。
しかし、なぜ人は空に憧れ、そして飛びたいと望むのでしょうか。そもそも空とは何なのか。日本の場合を考えてみましょう。作家の竹西寛子は「空はずっと昔から空だった」と、いつでもそこに空があることを直感的に述べていますが、高村光太郎の『智恵子抄』には「東京には空がない」と書かれています。我が国における空(そら)は、古代、般若心経にある空(くう)の思想と結びつき、また私たちは何もないことを空(から)とも書きます。そう考えた時、智恵子の言葉は「東京には無(む)がない」とも読めるでしょう。街や道路といったものは意味によって建設され、価値によって残されます。しかし、そうした場ではただそこに在ることを許容する空白が失われます。「色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています」と川端康成の言葉にありますが、様々な人間の理想や思惑が複雑に絡み合い形成される都市において、時に人は何もない空を、白の色彩を見失います。また、作家の石牟礼道子は「むかしの田園では、大地と空はひとつの息でつながっていた」と書いています。都会を離れ霞に滲む遠くの峰々を見遣る時、私にも空と大地とは一つに見えてなりません。空とはつまり、私たちの精神を意識やその理解から解放し、限りのない無垢へと至らしめる存在なのではないか。私には、そう感じられます。
「人間は考える葦である」とは、パスカルの言葉です。自然の中にあっては水辺の葦草のように頼りない人間が、これほど豊かな社会を築き上げてこられたのは、多く思考する力に依るものだと言えるでしょう。しかし、イカロスの翼の失墜は頭脳ばかりでは空を自由に飛ぶことは出来ないことを示唆しています。では、どうしたら人は自由に空を飛べるのか。その一つの答えが絵画にあります。マルク・シャガールの『誕生日』には、宙に浮かぶ画家が恋人に口づけする姿が描かれています。ここで注目したいのは、この画面には翼もそれに代わる装置も描かれてはいないことです。彼はただ、喜びにおいて飛んでいるのです。後年にシャガールは自身の絵画表現について「(私が描くのは)夢ではなく、生命」だと述べていますが、この一枚の絵には生命が歓喜する時、人は空をも飛べるのだということが描かれているようです。
2018年の夏の日に、ガネットさんが来日されました。今でも思い出すのは、紀伊國屋ホールで対面した彼女から光のようなものを感じ、我知れず落涙した記憶です。それは、初めて太陽を目の当たりにした土竜(もぐら)が、その光彩に流す涙のようでした。きっと私はこの時に空を飛んだのです。物語りの中で、少年の憧れは竜の自由と一つに結ばれ、羽ばたき出した大きな翼は空へ飛翔します。或いは、人は誰かの翼になることで本当の空を飛べるのかも知れません。明日、あなたは誰と空を飛びますか?
(文/池田日明)