人形劇団プーク の歴史

SINCE1929
日本の現代人形劇のはじまり

 第一次世界大戦後の1920年代のヨーロッパに起った新しい芸術運動の流れは、人形劇の世界にも波及し、見捨てられていた古い人形劇を現代的視点から見直し、現代人形劇へと創造しようとする運動が、ヨーロッパ各地の演劇や美術を志向する青年たちのあいだにひろがっていきました。やがてプラハ、ロンドン、パリ、モスクワに人形劇センターがうまれ、1929年には国際人形劇連盟(ウニマ)が設立され、プラハとパリで大会が開かれました。
 こうしたヨーロッパにおける芸術運動の動きは、やがていろいろな形で日本の文化芸術界に伝わってきました。ことに当時イギリス演劇界の新しい旗手として登場したゴルトン・クレイグが、演劇創造に人形劇を実験的に取り入れ考察した演劇論は画期的な論として注目され、これに興味を持った伊藤熹朔、千田是也、遠山静雄らの演劇青年たちが、自分たちも新しい演劇創造の実験として人形劇を創り上演をしてみようと考え、1923年(大正12年)11月23〜25日に東京麻布の遠山邸で、伊藤熹朔、千田是也、遠山静雄らがメーテルリンクの「アグラセーヌとセリセット」を人形座試演会の名で上演しました。この試演会は、9月1日の関東大震災で準備が中断されていたのを、12月に伊藤熹朔が兵役で入営することになり、急遽11月に計画されたものでした。試演会は、期間3日間のしかも遠山家の私邸で開かれるいうきわめてサロン的な公演でしたが、演劇専門家の間では評判となったようです。12月に発刊された当時の演劇雑誌「演劇思潮」1月号の巻頭のグラビア写真2ページが試演会の舞台写真で飾られ、試演会当日の模様と批評が掲載されています。 そしてこの試演会が、奇しくも日本の現代人形劇の幕開けとなり、現代人形劇史の巻頭を飾ることなったのです。

 翌1924年(大正13年)4月に、画家の永瀬義郎、評論家の高田保らがテアトル・マリオネットの名で丸ビルのホールで子どものための人形劇を上演。その一年おいた25年5月には、結城一糸、小糸源太郎、藤浪与兵衛らがお人形座をつくり帝国ホテル演芸場で公演し、29年には松竹映画大船撮影所の美術監督浜田辰男や美術評論家土方定一、詩人草野心平らのテアトル・ククラが新宿紀伊國屋書店で公演、おなじ年に土方浩平らのテアトル・パンチ、田中喜次の京都影絵座が公演しています。また1930年には、南江治郎が自費で現代人形劇の研究と啓蒙のための「マリオネット」誌を発刊するなど、1923年(大正12年)9月の関東大震災以後、あいついで現代人形劇のグループ、劇団が産声をあげ活動をはじめました。

人形劇団プークの創立

 プークはこうした時代の流れの中で生まれました。
 1929年(昭和4年)12月21日、東京赤坂の三会堂で20歳前後の青年たち18人が人形クラブ=LA PUPA KLUBO(プーク)の名で「リップ・ヴァン・ウィンクル」「クリスマス綺譚」を上演したのがプークのはじまりです。
 メンバーの中心である川尻東次や中村伸郎、鳥山榛名、青柳忠正、土方正巳らは、開成中学の同級生で、中村の長兄がヨーロッパ留学から持ちかえったマリオネットの手引き書に夢中になって取り組み、それがこうじて1926年(大正15年)6月、ダナ人形座の名で神田主婦の友会館講堂で公演します。これが基盤となって三年後に前述のメンバーのほか山中重治、高山貞章、潮田租、吉田隆子ら18人の青年たちで設立したのが「人形クラブ」でした。
 人形クラブは、初め、糸操り=マリオネット人形劇の舞台が中心でした。定期の公演は毎年一回でしが、彼らはその間、片手遣い人形をもってセツルメントや各地の労働者保育所を巡回公演し、そこで子どもたちの素直な反応に魅せられ、また当時の経済不況の中で失業と低賃金に苦しむ労働者の貧しい悲惨な生活と子どもたちがおかれている劣悪な生活環境を目にし、演ずる芝居の面白さと同時に恵まれない子どもたちによい娯楽をあたえたいという使命感をすら持つようになりました。しかし彼らの多くは大学生であり親がかりの身分であり、学業を終えればそれぞれ別の道を歩みます。グループの中心の川尻東次はすでに童画家への道を歩みはじめ、中村伸郎は新劇俳優の道をめざして劇団新築地の研究生に応募していました。他のメンバーもまたジャーナリスト、経済人を志し、誰も人形劇を生涯の仕事・ライフワークと考えている者はおらず、「人形クラブ」はいずれ解散するか、またはアマチュアグループとして存続し続けるかしかなく、そこに人形クラブがもつ限界がありました。 
人形クラブの活動のピークは、彼らの多くが翌年春、学業を終え、人形クラブの活動から離れることを前にした年の、創立から3年目の1931年(昭和六年)10月9日、10日の築地小劇場での第4回公演でした。演目の「勇敢なる兵士シュベイクの冒険」には、演出補導に舞台美術家金須孝を招き、また「三人のふとっちょ」は劇作を島公靖に委嘱、演出に前進座の中村鶴蔵、新内出語りに岡本文弥を招き、音楽に吉田隆子、照明に小川昇を委嘱するなど、劇団としては破格で豪華なスタッフを組んだ劇団総力をあげての公演でした。

 第5回公演がこのあとの12月にもたれますが、実質的にはこの第4回公演を最後に創立のメンバーの多くが社会人となって劇団から離れていきました。さらにまた、翌年秋に川尻東次が病で亡くなり、劇団の解散はもう自明のことでした。しかし東次の弟で劇団員になっていた18歳の川尻泰司の「劇団を引き継ぎ活動を続けたい」との強い希望が入れられ、プークは川尻泰司に託され存続することになりました。

川尻泰司の劇団再建への活動
 
川尻泰司がプークを引き継いだ時代は、すべての国民を権力の隷属のもとに強制した日本軍国主義の戦時下であり、その中で現代人形劇芸術の確立をめざすというまったく未開拓な事業を、ライフワークとして活動を継続していくには、たいへん苛酷な時代でした。しかし川尻は、治安維持法による劇団の強制解散、活動停止という試練の中で、劇団に代わる人形工房を設立して、車人形、乙女文楽、猿倉人形など多様な伝統人形劇や海外の人形劇研究書やニュースを頼りに人形の構造、形式の研究と実験をかさね活動を続けました。


戦後プーク再建とアンサンブルの歩み

 1946年(昭和21年)11月26日、川尻泰司は東次の命日を期して、職業専門劇団・人形劇団プークの再建を発表しました。
 それから再建第1回公演までの2年半、専門の人形劇俳優と人形美術家の養成に力をつくしました。人形の操作法の指導は川尻と妹の錦子が担当し、台詞その他の俳優教育は、戦時中の人形工房で共同生活をし苦労を共にした新築地の俳優で復員して加わった中江隆介と山本安江のもとで俳優修行をしていた妹の則子にまかせ、戯曲は復帰した高山貞章と中江隆介が分担し、人形美術は、人形工房時代の友人田中弥壮と勉強熱心な若い山田録太郎を助手に川尻自身がノミをふるい、音楽はやはり人形工房時代の友人で二期会に属していた音楽家の関忠亮が、また戦地から復員して入団してきた長沢勝俊が作曲に演奏に協力してくれました。また演出助手には人形劇団「みつばち座」から滝本総一が加わるなど、スタッフも充実し、再建を発表してから半年後の5月、宮沢賢治原作「オッペルと象」と川尻東次脚色美術「はだかの王さま」他の演目作品で、池袋テアトル・デザールと有楽町の毎日ホールで第一回試演会を開きました。この公演はたいへん好評で、続いて7月に第2回試演会を開き、演目に高山貞章作「人の良いお百姓」を選びました。この公演で採用された人形は、戦時中川尻が文楽の頭の胴串をヒントに考案した両手遣い人形で、片手遣いと比べ複雑な動き表現のひろがりが可能で、川尻がめざす近代劇的人形劇の舞台に適していました。

両手遣い人形と現代人形劇芸術の創造

 2回の試演会と地方公演でアンサンブルを訓練し鍛えたプークは、1948年(昭和23年)7月、有楽町・毎日ホールでプーク再建第1回公演の幕を開きました。演目は試演を重ねてきた両手遣い方式の「オッペルと象」他でした。公演は大成功で「人形劇は稚拙で非芸術的」との既成概念を打ち破り、演劇性芸術性ともに高い舞台と評価され大きな評判となりました。この公演でプークがめざすものが現代人形劇芸術であることが明らかになり、演劇界も注目するようになりました。「オッペルと象」は全国各地で公演され、多くの観客に感銘を与え、現代人形劇創造の未来性と可能性をアピールし、人形劇に関心をもつ多くの青年たちにその魅力を印象づけました。

 翌年5月、東京有楽町の読売ホールと毎日ホールで公演したプーク第11回公演の「ファウスト博士」の舞台成果で、プークの社会的評価は定まりました。プークの舞台と活動に影響を受けて、現代人形劇の創造をめざす若い劇団がつぎつぎと誕生しました。彼らは、川尻泰司が人形劇に持ち込んだ近代劇的舞台と両手遣い人形の形式を継承し、やがてプークとともにその後の日本の人形劇運動の中核となっていきます。

経営の行き詰まりとテレビ出演

 戦後社会の中でプークの新しい人形劇の舞台は、新鮮で革新的で娯楽性に富み多くの人たちに受け入れられました。しかし東西冷戦が激しくなるとアメリカの占領政策は大きく右寄りに変わっていきました。1950年朝鮮戦争の勃発直前、アメリカ占領軍は政府を動かし、政治、経済、行政、労働、文化の各分野で占領政策を批判する人々を追放しはじめました。プークのグリムの「こやぎとおおかみ」の世田谷公演は、占領軍からの指令で不許可となりました。この年の4月末のメーデー前夜祭で上演した「プー吉のキングコング退治」のアメリカの占領政策批判の内容が、占領軍の忌諱に触れたのです。以後、好ましからざる劇団と指名され、公演先の公民館、小学校での上演は困難になり、1952年から53年頃は、プークの経営は電気もガスも電話も切られるほどのどん底状態におちいりました。

この経済危機を乗り越えることができたのは民放テレビの開局でした。53年に放送を開始した日本テレビで9月から13回にわたる影絵「千一夜物語」のテレビ放送の出演が決まりました。そしてこれを機会に徐々に民放のテレビ番組やコマーシャルに出演するようになりました。

国際人形劇運動と現代人形劇の創造

 1958年、川尻泰司は、国際人形劇連盟(ウニマ)からルーマニアのブカレストで開かれる第6回ウニマ大会と第1回世界人形劇フェスティバルへの招待状を受け取りました。待ちに待った海外視察でした。このフェスティバルは、戦後ヨーロッパで初めて開かれた世界人形劇フェスティバルで、ヨーロッパの国々はそれぞれの国の代表的な人形劇人と人形劇団を送り込みました。現代的な発想と高い技術力、豊かな民族性、その多種多様多彩な舞台に、川尻泰司は大きな芸術的文化的ショックを受けました。一定の形式にこだわらず、人形劇の独自性を主張した独創的な舞台形式、人形の形式、人形の構造どれ一つ同じものはなく、世界の人形劇は、自分たちの概念をはるかに越え、新しい方向に進んでいることを身をもって知ったのです。この訪欧の旅は、川尻泰司にとって敗戦による戦後体験と並ぶ大きな転機となる出来事でした。
 
帰国後、川尻泰司の創造活動の方向は一変し、プークの舞台に一大変革をもたらしました。人形の構造を両手遣いから棒遣いに、中腰のあひる歩きでの遣いを立ち遣いに、さらには人形舞台を取り払い、出遣い、抱え遣いに変えていきました。そうしたあまりに急激な改革に対し、一部の俳優たちから反対の声があがりましたが、川尻は新しい現代人形劇の創造に芸術生命を懸けていましたから、持ち前の強引さと説得力でしゃにむに突き進んでいきました。伝統人形劇の構造、形式、表現の研究と伝統人形劇の復権を願って「伝統と現代」の企画に取り組み、また黒の劇場の様式を積極的に取入れ実験し挑戦したのです。

 その創造的成果が、61年の人形劇で初めて文部省芸術祭演劇部門で受賞した「逃げ出したジュピター」の舞台であり、65年の西村晃とプークの「黒の劇場・チンドンやでござい」の舞台であったといえましょう。

子どものための人形劇公演

 公演活動は1950年以来、経営的に不振を続けていました。再建のときに掲げた「こどももおとなも楽しめる5歳から88歳までの人形劇の創造」をスローガンとするプークの芝居は、こどもには難しく大人にはもの足りないとの観客から苦言があちこちから出ていました。
 
当時評判になっていた木馬座は、幼児のための「ぬいぐるみ人形劇」を大劇場で上演し、幼稚園児と父兄ともの団体観劇を宣伝して成功を収めていました。幼児のための人形劇上演をプークに期待する声は大きく、テレビ出演で経営にも余裕ができ、年に2回以上の定期公演も可能になったことで、1964年、子どもには子ども向き、おとなには大人向きの作品を創る方針がきまり、戦前のお人形座公演以来、戦後初めての子どものための人形劇公演が実現しました。

 66年にはさらに東京での年6回の定期公演をお茶の水の日仏会館ホール、浅草スミダ劇場、新宿紀伊國屋ホールの三劇場で開催しました。ちょうど福岡に子どものための観客組織「子ども劇場」ができ、各都市がこれに続き、地方公演の安定化が次第にみえはじめたときでした。68年には念願の公演活動のみで劇団経営が成り立つまでに経営は安定してきました。

日本初の現代人形劇専門劇場・プーク人形劇場の建設

 1960年代までは、プークのような小さな劇団には、人がよく集まる繁華な場所の著名な劇場はなかなか貸しくれませんでした。プークが自前の劇場を持とうと真剣に考えはじめたのは64年のことです。1969年の劇団創立40周年をめざし、5ケ年計画で、場所は現稽古場が建つ南新宿の40坪弱の土地に人形劇場を劇団員みんなの拠出で建てようという案です。たしかに土地は狭いが将来は副都心として発展することを考えれば、劇場としてもっともふさわしい場所です。しかし計画は5年が7年に延びました。東京オリンピック開催のあおりで建設資材は値上がりし、建設予算はふくらみ、団員たちの建設資金の積み立ての苦労が続きました。しかしそのために劇団の中に不満の声も雑音もでませんでした。劇団経営が順調に伸びていた時期であり、また計画を支持する協力者は多く、時運に乗っていたこともありましょう。それ以上に団員たちの強い創造意欲が支えとなっていました。
 1971年11月21日プーク人形劇場は完成し誕生しました。劇場はまた日本で初めての現代人形劇の専門の興行場として正式に認可されました。人形劇場の誕生のニュースは、新聞、テレビを通じて全国に世界に報道されました。劇場の誕生は劇団員に自信と安定と意欲をもたらし、社会はプークを信用できる劇団と見るようになりました。


 
国際的な人形劇の交流と活動

 プーク人形劇場の事業に海外の人形劇の招聘公演があります。世界の人形劇を日本の人形劇人や観客に紹介することと世界の人形劇人に日本の人形劇や文化芸術、社会を直接知ってもらいたいためで、また実際の舞台を通して人形劇の交流をすすめたいと考えたからでもあります。

 1976年プーク初めての海外公演が行われました。9月21日から11月11日までルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、チェコ、スロヴァキアの5ケ国の主要都市を巡る50日におよぶ公演ツアーです。ハンガリーのペチで開かれた国際人形劇祭典に招かれ上演した「日本人形風土記」は「民族的伝統を発展的に継承しつつ、現代的人形劇芸術を創造した優れた舞台であり、今回の東欧公演を通じてウニマ精神の発展に寄与した」として特別優秀賞が授与されました。翌年にはベルリン国際演劇祭に招かれ、ドイツ、ポーランドを巡演しました。

 1979年と97年にはブルガリア・ソフィア中央人形劇場の演出家ニコリーナ・ゲォルギェヴァ女史を招き彼女の演出する「動物たちのカーニバル」「展覧会の絵」をプークのアンサンブルで上演しました。
 川尻泰司は、62年から83年まで国際人形劇連盟の執行委員をつとめ、84年から92年まで副会長に選ばれ、その間、アジア、オセアニア、ヨーロッパ、北米、中米、南米と世界各国を訪問し、世界の人形劇運動のオルガナイザーとしての役目を果たし、特にアジア・太平洋地域の現代人形劇の振興に力を尽くしました。

芸術指導者・川尻泰司の死去 そしていま・・・

 1994年6月25日、川尻泰司は肺癌のため亡くなりました。享年80歳でした。その生涯は現代人形劇の創造と運動に貫かれた生涯でした。プークの人形劇アンサンブルを創り、プーク70年の歴史の殆どを切り開いてきた芸術指導者です。晩年は、現場での活動は少なくなっていましたが、芸術への感性は人一倍鋭く、新しい人形劇の形式を探る創造意欲はなお盛んでした。

 芸術指導者としてまた運動のリーダーとして常に劇団の中心だった川尻泰司の死は、団員たちに大きなショックを与えました。しばらくの戸惑いと時間的空白はやむを得ないことでしたが、日々の舞台活動がその空白を埋めてくれました。
 そしていま、団員たちはあらためて、基本にかえり質の高い舞台を創ることを目指し、技術の錬磨と自己教育に力を尽くし劇団アンサンブルの強化をはかっていこうとしています。
 しかし問題は山積しています。俳優と技術スタッフのアンサンブルの将来像をどう描くか。人形の構造と人形操作術の整合性、新しい人形劇形式の探求、人形劇の戯曲ついての研究。常につきまとう財政危機と困難な経営、これらの課題を解決するにはなおいっそうの努力が求められています。
 わたしたちは、これらの課題を克服し、観客の皆さんの暖かな支持ときびしい批評評価に鍛えられ、毎回の舞台の成果を着実に積み上げていくことによって、プーク21世紀への展望は自ずから開けてくると確信し、新しい現代人形劇の創造をめざして日々精進をかさねています。
                                                  (おわり)
                

人形劇団プーク

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